楽天にて、趣味で書いた小説をアップしていたところ、不具合が発生いたしましたので、こちらに移動しました。

アメーバとして

初めてご訪問していただけた方も

今後ともよろしくお願い申し上げます。

この作品は1989年ころに書き上げたものでワープロで打ったものをエクセル変換し

さらにMac用に変換してますので文字化けがひどく少しづつ修復しながらアップさせていただいています

物語の終わりまでは長くかかりそうですが素人故ご了承願います

登場する人物、設定、場所などすべてフィクションです

物語を読んでいて気分の悪くなった方はすみやかに退場ねがいます

営利目的ではなく個人的な趣味として書き上げたものですが著作権を放棄したわけではありません

営利目的での文章転載などはおやめくださいますようお願い申し上げます

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登場人物

靖国公一(やすくにこういち)

世界に一台しかない幻のポルシェ893をドライブする

御門麗香(みかどれいか)

白い薔薇のマークが入れられた特注のフェラーリテスタロッサを自在に操る絶世の美女

御門元来(みかどげんらい)

第二次大戦後の日本を復興させた人物で麗香の父親

コブラ

ACcobra427を駆り伊豆スカイラインで伝説のスピード記録を

作ったストリートレーサー

香川秀彦(かがわひでひこ)

ヤマハVMX12にスーパーチャージャーを装備した特別製のバイクを駆るストリートファイター

高城和雅(たかじょうかずまさ)

フルチューニングされたカワサキZ1000Rを駆るストリートファイター

岸口達也(きしぐちたつや)

スズキGSXR1100を駆り伊豆スカイラインで現在最速と呼ばれる男

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あらすじ

伊豆半島を縦断する有料道路、伊豆スカイラインには伝説のスピード記録を持つコブラと呼ばれるドライバーがいた

その記録に挑む絶世の美女ドライバー御門麗香は湘南のローザと呼ばれる走り屋だった

彼女には誰も知らないコブラとの関わりがあった

麗香はその記録に挑むため愛機フェラーリテスタロッサで伊豆スカイラインを疾走する

だが予期せぬアクシデントから彼女は重傷を負った

彼女のため、自らの限界への挑戦ため、靖国公一は愛機ポルシェ893でコブラに挑戦する

寒風吹く真冬の伊豆スカイラインでついに勝負の幕が切って落とされた

その結果靖国公一は驚愕の事実を知ることとなるのだった

黒い残像・ディスティニー

第一章 湘南の薔薇

あれからどのくらいたっただろう。

  どんなに苦しいときも

  どんなに寂しいと思ったときも

  あいつが在れば最高だった。

誰が何と言おうと関係なかった。

俺が俺でいるためには

どうしてもあいつが必要だった。

プロローグ

西暦1990年、秋。

深夜の高速湾岸線。

その時間帯、乗用車は少なく、流通のためのトラックが遥かに多く走っていた。

群れをなして走る大きな車体の間を、超高速で擦り抜けて来る車がいた。

トヨタ・スープラ3.0GTだ。

しかも、それはストック状態と明らかに違う、軽やかな身のこなしで交通の流れをリードすると、時速230kmのクルージングに入った。

このマシン(車)に敵うやつなんかいるものか。

ドライバーは、今まで自分の行ってきたパフォーマンスに酔いしれていた。

 まさにそのときだった。

スープラは一瞬のうちに、圧倒的なスピード差で抜き去られた。

低く、地表すれすれを滑るように現れた漆黒の車。

まるでアントニオガウディーの作品を見るような艶めかしい曲線で構成された流麗なボディーラインは、猫科の獰猛な獣が、獲物を捕捉したとき見せる姿勢にも似ていたが、その後方には、取ってつけたような感じがしない、見事に一体化した巨大な翼があり、大空を制する肉食の猛禽類にも感じられた。

呆然とするドライバーの瞳に、まるでブラックホールに吸い込まれるように、遠ざかって行く漆黒のマシンが映っていた。

  プロローグ2

西暦1970年、3月。

この年、アジア初、日本で最初の世界万国博覧会が開催されようとしていた。

深夜の東名高速道路下り線を一台のメルセデスベンツが走っていた。

大きく威厳に満ちたそのボディーは、明らかに他を圧倒していた。

リアのエンブレム左側に、最上級モデルである300SELのプレートが、誇らしげに輝いていたが、一つ違っていたのは、6.8と記された数字と小さくAMGのロゴが追加されている事だった。

それは、その車が特別中の特別といえる存在である証だった。

追い越し車線を、法定速度の2倍近いスピードで走っていたドライバーは、後ろから見る見る近づいて来た車に気がついた。

「旦那様、後ろから車が近づいてきました。」

後部座席に座る若い男に、そう声をかけた。

その言葉に、後ろをちらっと見ると

「このスピードで?

面白い。

わざわざ、6.3を、AMG仕様の6.8にした甲斐があったらしい。

かまわないから、スピードを上げて良いよ、大木君。」

と返事した。

「はい。

それでは、遠慮なく。」

ドライバーは、ぐっとアクセルを踏み込んだ。

巨大な車体である事を微塵にも感じさせない力強い加速で、ぐんぐん速度を上げていくと、あっという間に時速220キロに達した。

しかし、後ろの車は離れるどころか、更に近づいて来た。

後部座席の若い男は、我が目を疑うようにして、それを見ていた。

かなり近づいたと思った瞬間、後ろの車が、その速度から、スッと身軽そうに車線を変えた。

速度差は顕著で、メルセデスベンツはあっという間に並ばれた。

それはとても低く抑揚のあるデザインをした漆黒の車だった。

後部座席の男は、その動きをずっと見つめていた。

激しいエグゾーストノートが響くと、あっという間にスピードを上げ、見る見る前方へ遠ざかっていった。

「大木君、もっとスピードを上げて!!

あの車を追うんだ!!」

後部座席の男は身を乗り出すようにして、そう叫んだ。

「旦那様、限界です。

もう床までアクセルを踏んでいます!」

ドライバーも少し興奮気味に返事した。

スピードメーターは時速250キロを示していた。

「旦那様、あれは、車なんですか?

後ろに大きな羽が付いていて、まるで飛行機が、道路を走っているようでしたね・・・」

ドライバーはそう言うと、想像をはるかに超えたものを目の当たりにした事に、身震いを感じていた。

1.1(六本木)

西暦1990年、秋。

東京都港区。

若者受けする様々なメディアの集合する六本木のとあるバー。

流行のDCブランドを着た二人の男が、カウンターに合わせた背の高いスツールに腰掛け、コロナビールを飲みながら話していた。

その面持ちは、どちらもまだ二十代前半のように見えた。

「ついこの前、湾岸を230キロで流してたら、後ろからあっと言う間に抜かれちまったんだ。

焦って追っ掛けたんだけど、まるで追いつかなかった。」

一人が、いかにも悔しげな表情で黄金色の液体を飲み下した。

 「へえー、お前のフルチューンのスープラでも、追いつかない相手って?」

「見た事ない車だった。

クーペだったけど、それほど大きくはなかった。

ポルシェに似てたけど、911よりずっと低くて、後ろに、ばかでかい羽根が付いてた。

でも、後付けのエアロパーツとかじゃないみたいだった。

真っ黒いやつで、300キロ以上は出てたんじゃねえかな?」

「なんだ、そんなことがあったんか・・・

あれ、待てよ?

誰かがそんな話をしてたような気がすんなぁ・・・?」

 そう答えた別の男は、何かを思い出したのか

「そうだ。

雑誌にも載ってる、フェラーリF40(エフ・フォーティー)が、常磐道で、そんな真っ黒のクーペにカモられたって話しを、仲間から聞いたんだ。

 280キロは出してたけど、やっぱ、ずばっと抜かれたって。

F40(エフ・フォーティー)のやつも、ポルシェだって思ったらしい。

最初は959だと思ったんだけど、凄く低い感じがして、全然違ってたって。」

「じゃあ、やっぱ、さっきのやつと同じかなぁ?

それにしても、なんでポルシェは古い設計なのに速いんだ?!」

「全部じゃねぇさ。

追い越し車線でイキガッてるポルシェなんて、俺が何度も蹴散らしてやったぞ?

本気でイジったら、日本車が一番速えーに決まってんじゃん。」

「設計が古いで思い出したけど、静岡にいる仲間から、最近また伊豆スカイラインでコブラを見かけたって、話を聞いたぞ。」

スープラの男は、アンソニー・アンド・クレオパトラのたばこを取り出してポーズを気にしながら吸い始めた。

「コブラって、だいぶ昔に出した、伊豆スカイラインの横断タイムが、ものスゲーってんだろ?」

「御殿場のどこだかのバーの奥にその記録プレートに残ってるって噂だけど。」

そう返事すると、スープラの男は、一回吸っただけのタバコを無造作に灰皿へ擦り付けた。

「だけどよ、所詮それだって何十年も前の車じゃんか。

 それも、俺たちの生まれる前に作られて、それっきり作られてないし、マジで走れば、俺のZなら楽勝だべ。」

自慢げな表情を浮かべると、男はNISSANのイニシャルが彫ってあるキーを、指でもてあそんだ。

「なんかノって来ちまったし、これから一発、スカイライン走りに行こうぜ。」

「そうだな。

でもよ、いきなしタイムが出ちまったら、証拠がねぇぜ。」

「どうせ、コブラの出したタイムだって、もう怪しいもんだぜ。」

スープラの男が、馬鹿にしきった顔をした。

「だよな!!

車も、乗る奴もポンコツだったじゃ、勝っても自慢になんねぇけどな。」

二人の男は、大声を出して笑いあった。

「無理ね。」

そのとき不意に若い女の声がした。

 その女性はカウンター脇の目立たない場所に腰掛けていた。

1952年型ティアドロップタイプのレイバン・ウェイファラーを掛けているため、その表情こそ窺い知ることは出来ないが、サングラス映えのするその秀麗にして端整な面持ちは、稀に見る美人であろうことがすぐ理解できた。

 身に纏った、上質な本革製のタイトスカートは、日本人の基本的体型を完全に無視したかのような彼女のプロポーションを、より強調していた。

「・・・?」

そちらを振り返った男たちは言葉を失った。

こんなにも次元の違う女性を見た事などなかったからだった。

「貴方達じゃ、百年勝負したって勝てないわよ。」

 ウェイファラーをそっと外すと、その女性は若い男達を毅然と見つめた。

 光沢ある艶やかな長い黒髪が、カクテルライトを反射した。

 その、どこか陰のある透明な瞳は、まるで宝石のようで、非の打ち所ない美貌は、贅肉をそぎ落とした猫科の猛獣を思わせるしなやかな姿態と相まって、まるでこの世のものとは思えないほどだった。

「な・・・・・・

何だと?」

 その妖しげな大きな猫科の瞳に射すくめられたZの男が、ノドを詰まらせながらも、イキガって見せた。

 「普通はどんなに運転慣れしても、車の挙動を把握しながら、走る場所に応じて頭の中でラインを描くけど、あの男は違う。

 車は体の一部みたいなものだし、伊豆スカイラインは、目をつぶっても走る事が出来るくらい熟知しているの。」

彼女は宝飾付最高級腕時計ピアジェをはめた左手で、けだるそうにグラスをゆらしながら、その中の氷の動きを目で追った。

「随分と詳しいんだな。

あんた、コブラのこれかい?」

その男は好色な笑みを浮かべると、わざわざ彼女のそばまで歩み、野卑に小指を立てて見せた。

「こうしない?

これから、一緒に首都高に乗って、東名で御殿場まで勝負しましょう。

それで、わたくしに勝てなければ諦めることね。

所詮貴方は、そこまでなんだから。」

彼女がそう言い放った。

「ふーん、おもしれえ。

俺のZと、こいつのベイルサイド・フルチューンのスープラは、300キロ出るんだぞ。

勝てるつもりでいるんか?!!」

馬鹿に仕切った仕草でそう言い放つと、せせら笑った。

「それで、やるの?

やらないの?

どっち?」

彼女は焦れたように少し口早に、そう答えた。

 「よしっ、もし俺達が勝ったら、お前、どうなってもしらねぇぞ。  

朝まで好きにさせてもらうからな!

謝っても、もう遅せぇぞ!!」

男は、吠るように言い捨てた。

「いいわよ。

御殿場まで、私のお尻が見えていられたらね。」

男たちをからかうように薄く笑みを浮かべた彼女は、カウンターから、じっと成り行きを見ていたマスターに

 「坊や達におごりね。」

と言った。

マスターは彼女の言葉に、黙って頭を下げてみせた。

三人が店を出ると、すぐ後を追うように一人の男が外に出て来た。

黒いスエードのベースボールキャップを深めに被り、レイバン50(フィフティー)のキャッツアイタイプ・サングラス、バロラマをかけているため、その表情を見て取る事は出来なかった。

独特のカーボン色が印象的な、ロバート・コムストックデザインの、いかにも鞣しの効いたシープスキンの、ボンバージャケットに、年期のはいったリーのデニムパンツを身に着けた男は、電光飾の輝めく街灯のペイブメントを、ナイキのウォーキングシューズで、ゆっくりと歩きだした。

1.2(東名高速道路)

東名高速東京料金所、その各トゥールゲートから電光石火の勢いで飛び出す3台の車があった。

長距離定期便トラックの群れを縦横無尽にすり抜けて抜けて行ったのは、トヨタ・スープラ3.0GT、ニッサン・フェアレディZ300ZR、そして、車体両側に小さく入れられた白い薔薇の花模様が特徴的な、濃紺のフェラーリ・テスタロッサだった。

 すぐに交通渋滞に巻き込まれた三台の内、運良くスープラが飛び出した。

詰まっている車線でZはわざと減速して遅い車と並ぶ。

 車線をブロックしてスープラを逃がすつもりだろう。

しかし、素早くステアリングを左に切ったテスタロッサは、その低く幅の広いボディーを路側帯に放り込み、コンクリート側壁と11t貨物トラックの間をセンチメートル単位でかすめて行った。

車輪が巻き上げた砂煙が、竜巻のように舞い上がった。

「ふざけた女だぜ!

テスタとはな!」

スープラの男が忌々しげにそう言った。

二台はパーソナル無線を使って交信していた。

 音声によってマイクスイッチが入るタイプだ。

「テスタだって、チギッた事ある。

高けぇだけだ、あんなの。

金持ちのオネェちゃんが、なめやがって・・・・

ただじゃおかねぇ・・・」

Zの男がイキガッた。

「ああ、思い出した!」

 先を行くスープラの男がすっとんきょうな声を出した。

「どうした?!」

「あの女、湘南のバラだ。」

「なに?」

「湘南のローザだよ。

テスタの特徴になってるはずのサイドスリットが入ってないし、フロントピラーのすぐ下に、パールホワイトの薔の模様があったろ?」

「ああ・・

そうだな。」

「濃紺のフェラーリ・テスタロッサに白いバラ。

あの女のトレードマークだ。」

「超美人の走り屋だって聞いてたけど、なるほどな。

よーし、負けられねえ。

あいつが好きにして良いって言ったんだ、絶対イッパツ決めたるぜ!!」

Zの男は貪欲な目を光らせると、生唾を飲み込んだ。

横浜インターを過ぎると高速コーナーが連続してくる。

「そろそろ行こうかな・・・・・・」

そうつぶやいた湘南のローザは、悪質で危険なブロックを続けるZをなんなくかわして、前に出ると、セーブしていた右足をぐっと踏み込んだ。

 コンピューターフルチューニングされた電子燃料噴射装置と、口径を変え、効率を最大限引き出すツインターボで武装され、1000馬力を叩き出す5000cc、DOHC水平対向12気筒エンジンが雄叫びをあげた。

 それはまるで、世界的オペラ歌手が、自らの命を懸けた時のみに出るであろう、その歓喜のソプラノにも似た生物的な咆吼だった。

 「速えぇっ!!」

 Zの男はその身の毛のよだつ加速に絶叫した。

 一般車に行く手を阻まれて思うように走ることの出来ないでいるスープラは、スロットルを開け閉めしながら車体を右に左に入れ替えて、突っ走っていた。

 ちらっとバックミラーを見ると、みるみる迫ってくる車が映った。

 周囲の車とは明らかに違う低く幅広い位置に取り付けられたヘッドライトが何物か理解するのに時間はいらなかった。

 「チクショウ!!」

 そう叫んだスープラの男は、自分の思っていたよりも遙かに違う彼女の才能に少し慄然としたものを感じてきていた。

比較的見通しのよい大きなRの左コーナーにさしかかったとき、

フェラーリ・テスタロッサはついにスープラを射程内に収めた。

隣から並ばれかけたスープラは、時速250km以上のスピードにもかかわらずブロックしようと、無理矢理ノーズを振った。

走行車線を走るフェラーリの前を塞ぐつもりだったのだろうが、路面のキックバックが激しく、突然ステアリングが振られたため、思わず口から心臓が飛び出しそうになった。

それを横目に、更に猛スピードでコーナーに突入した彼女は、そこで初めてステアリングをコーナーに合わせた。

 カーブと重力の関係を完全に無視した走り方が物理的に許されるはずがない。

 猛烈な遠心力が否応なしに彼女のマシンを責め立て、恐ろしく太いタイヤですら、たまらず悲鳴を上げながら白煙を噴き上げた。

 その瞬間、テスタロッサの巨大な尻がズルッと外側に振られた。

彼女はそれを予期していたかのように、素早いカウンターステアを当てた。

絶妙のステアリングコントロールに加え、スロットルコントロールを駆使し、4輪ドリフトしながら車線を跨ぐと、中央分離帯付近でギリギリグリップを取り戻した。

すかさず慎重にステアリングをフラットに戻すと、そのまま強引に加速に入った。

 一瞬でスープラと差が開いた。

「スゲーっ!!

あの女、250キロでドリフトしやがった!!」

スープラの男がマイクに向かってそう叫んだ。

こんな連中でも、車好きには変わりがないようで、彼女が見せたパフォーマンスに、素直に興奮したのだった。

走行する車の群れの中を、まるでシケインでも通過するようなつもりで大した減速することなく、右左に車をかわすように縫っていくフェラーリ・テスタロッサに、もはや二台が追い付ける訳がなかった。

完全にぶっちぎった湘南のローザは、唇を歪めて薄く微笑むと、自分だけのハイスピードクルージングをしばらく楽しむことにした。

通常の速度で走行している限り、日本の高速道路はそれほど危険な事はない。

しかし、これほどの速度域となると、それなりに仕上げてある車でない場合、足回りに不安が出る。

物流の要であるため、通行量が多く、道路の痛みも無視出来ず、見た目は何ともなくても、うねりや凹凸が危険材料となる。

そのため、先ほど、スープラに起きたように、車体を対方向に揺すられたり、ハンドルに振動を引き起こすといった現象が現れるが、相当にしっかりとチューニングされていたマシンなのか、彼女にとって、このくらいは何の破綻を来すことない芸当だった。

 湘南のローザは時速280キロで、何気なくルームミラーに視線を移した。

するとボディー後方に取り付けられた巨大なテールウィング越しに、見る見る迫って来る一台の車を確認した。

「チッ!」

舌打ちをすると、彼女はすぐに加速を開始した。

だが、そいつは恐るべき速度で、フェラーリの脇にピタリと並んだ。

 そして、走行車線を通常の速度域で走る前方の車を避けるべく、彼女の目の前に強引にレーンチェンジしてきた。

光沢のある漆黒のボディーカラーだった。

国産車とは比較ができないほど低い車体に、巨大なテールウイングを見た彼女は、この車が先程の連中ではない車種だと気が付いた。

テスタロッサの鼻先ぎりぎりを掠めるようにして出たそいつのおかげで前方の視界が塞がれた。

尋常ではないスピードで、これだけの事が出来るには、ドライバーの腕もあるが、その車が優れた動力性能と、卓越した車体剛性を持っている以外に考えられない。

突然、眼の前を塞がれたが、彼女は踏み込んだアクセルを緩める事はしなかった。

車間距離はもう1mもなかった。

初めてだというのに、彼女はこの車を信じられたから出来る行為だった。

 ところが、徐々に車間が離れ始めた。

「何よ?!!」

今度びっくりさせられたのは彼女の方だった。

フェラーリのレスポンスに不足がある訳ではない。

それ程その車が速いということだ。

だが、彼女は諦めない。

時速300キロでスリップストリームを使い、そのテールに食らいついた。

「何、この車?

今まで見たことの無い形だわ・・・

ナンバープレートも変ね?」

次の瞬間、漆黒のクーペは、鋭く左に動いた。

 運転に集中していなかった彼女の前方に、通常のスピードで走るセダンが在った。

あっという間に車間が詰まる。

みるみるその車に吸い込まれるような感覚がした。

 もはやこの速度域で急ハンドルは切れない。

 仕方なく彼女はフェロード・レーシングにシステムアップされたブレーキペダルを力一杯踏み付けた。

メーター読みで時速320kmを示すフェラーリ・テスタロッサは急激にその力を失うと、あっという間に180kmまで減速した。

そこで、彼女は素早くステアリングを切ると、車線を変えて加速体勢に移った。

 しかし、この加速では物足りないと思った彼女はギヤをたたき落とした。

 タコメーターの針が一気に跳ね上がる。

 再び雄叫びをあげた1000馬力のモンスターマシンは、ぐんと加速を開始したが、急激に高められたエネルギーのため、タイヤが路面を捕らえ切れず空転した。

超高速で蛇行しようとする車体を、慎重なステアリングワークで修正する彼女の瞳に、見る見る前方へ遠ざかる漆黒の車体が映った。

 このところ久しく味わったことのない痛烈な敗北感と緊張に、彼女の両腕は、わなわなと震えていた。

 胃がむかむかしてくる。

 無意識にぎゅっと歯を食いしばっていた。

 やり場のない怒りに、精神錯乱を起こしそうになる自分を必死に落ち着けようと努力した。

御殿場と書かれたグリーンの出口標識が現れた。

もはや戦意を失った湘南のローザは、幻想でも見た様な表情を浮かべ、自身のドライブするフェラーリ・テスタロッサを出口車線に向かわせた。

1.3(ミッドナイトバー)

箱根街道をしばらく行くと、街灯も少なくなり、辺りは真っ暗闇だった。

湘南のローザは、その道沿いに、深夜バーのほのかな明かりを見た。

そこは以前から知っている店だった。

ここで、気持ちを落ち着けて帰ろうと思って近づくと、暗がりに目立たぬように駐車してある車に気がついた。

 彼女には、それが先程の車だということがすぐにわかった。

 そいつは、それほどまでに走り屋の間でもカリスマ的存在である湘南のローザの脳裏に焼き付いたのだ。

 彼女は通りに車を停めると中に入った。

 薄暗いクラシックな電灯が照らし出す木製のカウンターに男性客が一人だけ腰掛けていた。

「隣、宜しいかしら?」

彼女は少し首を傾げると、猫科のつぶらな瞳で、男の顔を確かめるように覗きこんだ。

 もうだいぶ気持ちは落ち着いていた。

「どうぞ。」

ブラックスエードのベースボールキャップにレイバン50のキャツアイサングラスをかけたその男は、そちらの方を少し向いて答えた。

「もしかしたら、六本木のお店にいませんでした?」

 その出で立ちがよほど印象的だったのか、記憶力が良いせいか、何かを思い出したように、彼女が尋ねた。

 「よく覚えてたね?」

出されたバランタイン12年物スコッチウイスキーの入ったグラスを受け取ると、男はバーテンに右手の人差し指を立てて見せ、彼女にもというゼスチャーをした。

「それじゃ、あの話、聞いていたのね?」

「・・・・」

「それで後を付けてきたんでしょ?」

 先ほどの連中の時と違って、今の彼女は積極的に男を見つめながら話した。

「悪気があった分けじゃない。

気に触ったんだったら謝るよ。」

 男は静かな口調で、そう答えた。

「別に謝られる理由はないわ。

それよりあの車、車種は何?」

「ポルシェだよ。」

「ナンバープレート、地名が千だけだし、分類番号も3としか書いてないなんて変わっているのね。」

湘南のローザは、運ばれて来たグラスを右手で持つと、そっと上にあげて礼をした。

「古い車だからね。」

 「ふーん、私はその古いポルシェに抜かれたわけね。」

グラスの中の物を少し口に運ぶと彼女は唇を歪め、残念そうに眉を上げて見せた。

「だから、別に悪気があったわけじゃないよ・・・」

 男はまたそう繰り返した。

「わたくし、御門麗香(みかどれいか)です。」

彼女はどんどん話し続けた。

 「靖国公一(やすくにこういち)です。」

「靖国さんっておっしゃるのね。

わたくし、葉山でレストランをやっているの。

 あなたもあの伝説のコブラには興味あるみたいね?」

 「・・・・・」

「だから、このお店にもいらしたんでしょ?

ここは、あの男が現れる数少ないお店だと知ってたんじゃないの?」

彼女は顔色を窺うようにした。

そして

 「わたくし、あの男について、少し知っているのよ。

あなたと少しお話ししたいし、よかったら、お店に来て頂けないかしら?

お食事でもしましょうよ。」

と一枚の名刺を差し出した。

 両面濃紺に染められ、白抜きのエドワーディアン書体でラ・セーヌと書かれ、下に小さく御門麗香と綴ってあった。

 裏側を見ると、中央に、車と同じ象徴的な白い薔薇の模様が描かれていた。

「ラ・セーヌ?」

「今度の土曜日、午後六時に待ってるから、必ず来て。

間違えると失礼だから、その服で来てね。

 それじゃ、ごちそうさま。」

 彼女は自分の言いたいことだけを話すと席をたった。

程なくして、闇に包まれた窓の外に、フェラーリ12気筒エンジン特有の、しかしノーマルより遥かに大きく乾いたエクゾーストノートが響き渡った。

それを背中越しに聞いていた男は、ゆっくりとグラスを口に運んだ。

      1.4(江ノ島)

湘南、江ノ島ヨットハーバーの防波堤上で、ロバート・コムストックのシープスキンで出来たボンバージャケットに身を包み、レイバン50のキャツアイサングラス・バロラマをかけた靖国公一が、週末の静かな海を見つめていた。

いつもは当てにならない約束は無視する事にしていたのだが、せっかくの好意なので、今日、彼女と会うことにしたのだった。

打ち寄せる波音が心地よいこの場所の静寂が破られた。

眼下の直線路を、明らかにチューンしたとみられる音を撒き散らして、トヨタ・スターレットがこちらに向かって突っ込んで来たからだ。

 江ノ島は空から眺めると、ちょうどアルファベットのL字型に道路が走っており、縦のラインの右側が公園とヨットハーバーで、左側が商店街、そして横のラインに沿って横長の駐車場になっている。

スターレットは突き当たりまで来ると、駐車場の入口の前でクルリとスピンターンをしてまた向こうに遠ざかった。

 時間帯にも寄るのだろうが、空いていることをいいことに、何度繰り返したことだろう、いいかげんあたりも薄暗くなって来ると、その車は脇に寄って停車した。

色の濃いスモークフィルムの貼られたサイドウィンドーがモータードライブの音と共に下がると、そこから、十代後半と見られるショートカーリーヘアの娘の顔が現れた。

今、自分のおこなっていたパフォーマンスの余韻に浸るかの様に彼女は軽く目を閉じると胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。

「楽しかった?」

防波堤を降りた彼が娘に尋ねた。

「え?」

びっくりしたように目を開けると、娘はその声の方向に視線を向けた。

「おもしろそうだったからさ。」

公一はにこやかな笑顔を見せた。

「いいじゃない、別に。」

娘は素っ気なく返事をすると、また目を閉じた。

「そうだね、御免。

ひとつ聞いてもいいかな。」

「もう聞いてるじゃん。」

「そうだね・・・

君は車が好きそうだけど、何故そんなに一生懸命走るのか考えたことある?」

「なに言ってんの?

変な人。

もう向こうへ行ってよ。」

面倒くさそうに娘は言い捨てた。

公一は、こんな娘に質問するようなことじゃなかったなと思いながら

「悪い、悪い。

君は、ここいら辺でレストランをやってる御門麗香さんって人のこと知らないかな?」

と尋ねてみた。

「勿論、知ってるわよ。」

娘はその名前を聞くと、突然胡散臭そうにした。

 こんな奴が、何故その名前を口にしたのか理解できないといった感じがありありと伺える表情だ。

「彼女の店、どこらへんにあるの?」

「ハハ、あんたなんか相手にされる訳無いじゃん。」

 若い女は、ふざけたことを抜かす奴だとでも言わんばかりにそう言い捨てた。

 「この名刺もらったんだけど、あいにく場所を聞き損ねてね。」

公一はボンバージャケットの胸ポケットから貰った名刺を出して娘に手渡した。

「本当だ、すごーい!!

めったに貰えないんだよ。

ふーん、これがそうなんだ。

初めて見ちゃった。」

興奮した表情で、それを受け取った彼女は名刺を穴があく程見つめた。

「知ってたら教えてよ。」

少し焦れたように答えを急かせた。

「海岸通りに出たら、右折して森戸海岸方面に走ると、ヨットハーバーが見えて来るから、日陰茶屋があって、それを過ぎた辺りに、小さな看板が出てるはずよ。

その信号を左に曲がって坂道を登っていけば、すぐわかるわ。」

急に少しだけ丁寧な口調に変化した娘が、そう返事した。

 「ありがとう。」

公一は微笑みながらそう答えると、葉山方面を見やった。

「ねぇ、これ貰えない?」

よほど嬉しかったのか、彼女は顔を紅潮させていた。

「ああいいよ。

教えてもらった礼だ。」

「ええ、いいの?!

信じらんない!!」

娘は、何キャラットもある宝石でも手中に収めたかのような表情を浮かべて見せた。

辺りはもうかなり暗くなって来ると、さすがに海風は冷たく感じる。

公一は駐車場へと歩き出した。

左腕にはめられたロレックス・オイスター・デイトを見た。

手動巻にして、いかにも堅牢で質実剛健な、実用性だけ重視した白い文字盤は午後6時10分前を指していた。

1926年に特許を取ったロレックスのオイスターケースとは、文字通り牡蠣の殻を意味する。  

 医療器具などにも使用される金属を塊から形にくり抜いてケースを成型し、シームレスとしたことで堅牢性、防水性能を高めた腕時計として誕生し、翌年、メルセデス・グライツがこれを腕にはめ、ドーバー海峡を泳ぎきった事で、世界初の防水型機械式腕時計として、その名を世界中に広めたのだ。

 現代の防水時計、延いてはダイバーウォッチの元祖と言っても過言ではないだろう。

 装飾品としての価値が重視され、こうした本来のタフというところが薄れてはいるが・・・・・

しばらくすると、娘は嬉しさをかくしきれないように車をホイールスピンさせてスタートした。

車速をぐんぐん上げながら江ノ島桟橋へと向かう。

L字型の道を先まで戻ると桟橋は右方向へ直角に折れ曲がった方にある。

つまり逆コの字形になる訳だ。

 そして比較的長い橋上の直線路となるその道を、偶然車がなくすいていたので、彼女は興奮していたため、いつもより減速しないでコーナーに突っ込もうとした。

しかし自分の思ったイメージとスピードではないと気がつき、ギリギリになって突然シフトチェンジした。

ブレーキを目一杯踏みつけながら、ヒールアンドトウを駆使して、3速、2速とギヤをたたきこむ。

しかし、恐怖感からか、まだスピード合っていないと感じていた。

 このままだと橋脚から海へ真っ逆さまだ。

 とっさの判断で、彼女は更にローギアへたたき込んだ。

エンジンがオーバーレブし、リア・タイヤはロックしたままずるずると地面を引っ張られ、それでもようやくステアリングを切った彼女は、不様に蛇行しながら歩道縁に車輪を叩き付けると、ようやく止まった。

 周囲の人々が、何事かとざわめく中、極度の緊張と恐怖、そして思いがけないアクシデントにぶるぶると悪寒を覚えながら、娘は落ち着こうと努力した。

 そのとき、後方に特徴的なホーンが響き渡った。

ハッとして振り返った彼女の車のすぐ脇を、大気を震わせるような重低音を轟かせて、とんでもないスピードで走り去る一台の車があった。

ヘッドライトの強烈な閃光は一瞬のうちに赤いテールライトと混じり合って光の帯となり、橋上の直線を、あたかも敵の空域に出撃して行くジェット戦闘機の様なエクゾーストノートを轟かせていた。

ただ茫然と見送る彼女は、サッと手を挙げて一礼したドライバーの顔と、先程の男と結び付けるのが容易ではなかった。

1.5(ラ・セーヌ)

三浦半島、葉山の小高い丘にある地中海風のオーセンティックなルネッサンス様式の洋館は、暮れ行く夏の夕凪を静かに見下ろしていた。

日が落ちると、その見事なエクステリアをより一層引き立たせるように、庭に置かれたライトがその建物を照らし始めた。

母屋の下側に位置する駐車場には、英国が世界に誇る名車ロールズ・ロイスのリムジンや、独国、クラフツマンシップの伝統、最高級車メルツェデス・ベンツを更に豪華にチューンナップし、ストレッチした特別仕様、あるいは明らかに後部座席を尊重した造りの様々な国の高級車が、主人の帰りを待っていた。

突然、重低音が轟いた。

食事か、或いは会談でここを訪れた主人から預かっている車を撫でさするように磨き込んでいたショーファー達が、揃って、正面ゲートを見た。

そこに現れたのは、漆黒のクーペだった。

何物にも形容しがたいなめらかで美しい曲面構成のボディーは、真四角な車しか存在しないこの場所には、まるで別の世界からやってきた乗り物の様に見えた。

その直後、ショーファーたちは更に驚く事になった。

その漆黒のクーペのドアが真上に跳ね上がったからだ。

「ガルアィングドアだ・・・」

一人がそう言った。

「確か、だいぶ前にベンツのクーペがそうだったよな?

石原裕次郎が持ってたんじゃなかったかな?」

「だけど、あれは違う。

フロントグリルにベンツのエンブレムがないし、グリルもないのはエンジンが後ろにあるって事だ。」

そんな会話をしているショーファーたちを尻目に、館の正面玄関へとつづくアプローチを登り始めた公一に、一人が声をかけた。

「ねぇあなた、まさかその恰好で中に入るつもりじゃないんでしょ?」

一見、人の良さそうな痩せ型の中年男だった。

「何故だい?」

公一はその男を振り返った。

「いや・・・」

そう言ったとき別のショーファーが続きの言葉を制した。

そのショーファーは公一に向かって、なんでもないといった風に手でジェスチャーをする。

公一は踵を返すと、また登り始めた。

「どうして止めたんだよ。」

「おおかた、どこかで、ここの噂を聞いてきたんだろう。

変わった車に乗ってるくらいの金持ちかもしれないけど、あの恰好では門前払いだよ。

会員制超高級西洋料理店ラ・セーヌは、観光気分で来るところじゃない。

どんなに金持ちでも、ここだけは一般人の立ち入れる場所じゃないってことを知るさ。

見てな。

今、諦めて戻って来るから。」

「そう教えてあげれば良かったのに、悪い奴だな。」

一見、人の良さそうなショーファーは、所詮自分に関係の無いことだと思いながら、またせっせと車を磨き出した。

「退屈なんでね。」

そう言うと言葉を制止したショーファーは腕を組み、アプローチに遠ざかる公一を見上げた。

正面玄関にたどり着くと、扉の脇に立っているどこかの国の衛兵のような恰好の男に呼び止められた。

「失礼ですが、その御支度での当店への入場は御遠慮願います。」

「ここへ来いと言われて来たんだ。

聞いてないのか?

俺は、靖国公一という者だ。」

「恐れ入ります。

当店の規則ですので。」

衛兵服の男は彼の前に立ちはだかる。

「御門麗香さんに、この恰好で来いと言われて来たんだ。

聞いてないの?」

「とにかくお引き取り下さい。

他の方々の迷惑になりますので。」

男は公一の広い胸板を力強く押したがびくともしなかった。

再び渾身の力を込めて押してくるその男の顔が紅潮した。

しばらく黙って男のなすがままになっていた公一が突然大声で叫んだ。

「おーいっ!!

御門さーん!!

約束どおり来たよ!!」

しつこく組みついてきた衛兵服の男を軽く片手で振りほどくと、弾みで横飛びになって昏倒した。

「御門さーん!!」

ショーファー達の驚愕の視線を背中に浴びながら公一はまた大きな声を出すと、館内から、体の大きな男が出てきた。

シルクの黒っぽいダブルの背広を着ていた。

真っ直ぐに歩み寄って来た男の身長は2メートル近くあるだろう。

学生柔道でもやっていたかの様な、いかつい風貌にポマードで塗り固めたオールバックの髪をしていた。

「御用件は?」

「御門麗香さんから招待を受けたんだ。

来ても分からないと失礼になるから、いつもの恰好で来いと言われたんだ。」

公一はまたかと思いながらも、繰り返し答えた。

「あいにくですが、全く聞いておりません。

お引き取り願います。」

 大男は無表情で言い捨てると180度ターンして玄関に戻って行った。

公一は黙ってその後について行った。

「いいかげんにしろ、ここはお前のような奴の来るところじゃないんだ。」

大男は突然大声を出して振り向くと、右手で公一の胸倉をつかんだ。

物凄い力に170cm強しかない彼の体は今にも持ち上がりそうになる。

公一はその手首を両手で持つと、一旦下側に押しておいてから、今度は相手がその手を戻す反動を利用して内側へと急激に捩った。

鈍い音がして悲鳴を上げた大男は後ろに反り返った。

手首の軟部組織が破壊したかもしれない。

しかし公一には関係の無いことだ。

「びっくりさせるからだよ。

済まなかったね。

平和的に行こうじゃないか。

これ以上は争いたくない。」

公一がそう言ったが、怒りに平常心を失ったその男は、今度更に両手でつかみかかって来た。

公一はギリギリまで待って素早く横にダッキングして避けるとそいつを押さえ込んだ。

大男はそのままの状態で、公一の腰にその太い腕を巻き付けた。

その瞬間、公一は大男の首を掴むと、ぎゅっと力を込めた。

 しばらくすると、苦しげな呻き声と供に大男の力がなくなった。

 自分の意志で立つことの出来なくなったそいつをそっと寝かせてやると、体を大きく震わせながら激しく咳き込んでいた。

公一は胸元を正した。

そのヘビーデューティーで機能的な本革のボンバージャッケットはびくともしていなかった。

さすがはUSAの雑誌アウトドアーの編集長でもあるロバート・コムストックが自らテストを繰り返し、苛酷な条件下での使用を考慮してデザインされたものだけのことはある逸品だ。

公一は後ろを振り返ると、事の成り行きを呆然と見詰めていたショーファー達に、右手を腹の前に出して頭を下げる貴族的な挨拶をして見せた。

そして、サングラスに手を持っていき掛け具合を直すと、艶やかな黄金の玄関の扉に手をかけた。

 彼をもはや止める者はいなかった。

中に入ると、おそるおそるディレクトールが近づいて来た。

「お客様、誠に恐れ入りますが、私どもは本当にお嬢様からお話しを伺っておりませんのでして・・・」

初老のその男は、額にうっすらと汗を浮かべながら言った。

問答無用の構えであった公一だったが、成る程、奥に着座している人種達は総てフォーマルウェアを身に纏っているのだった。

「私が言い忘れたの。

御免なさい。」

エントランスに繋がる、見事な真紅のベロアウール・カーペット敷きの階段から、あの御門麗香が声をかけた。

あくまでも上品な輝きを放つ紺に限りなく近い色合いだが、光線の具合によってダークバイオレットにも見える美しい色彩をした、イブニングドレスを身に纏っていた。

「二階の海側のお部屋に、二人分の食事を用意して頂戴。」

ディレクトールにそう告げると公一に視線を移して

 「こちらへ。」

と誘った。

それにしても彼女の姿態はすばらしい。

日本人離れした腰の高さが、そのドレス姿を一層引き立たせていた。

階段は所々にステンドグラスが嵌め込まれ、それぞれが離れているが、それら全て繋がる一枚の作品になっているような感じがした。

白い薔薇がたくさん咲いている様子が、とても繊細に描かれていた。

回廊へ出ると、部屋に通された。

美しいロココ調の庭園、眼下に広がる湘南の海に整然と帆柱を並べるヨットハーバー。

 その部屋にあるバルコニーからの眺めは絶品だった。

 建物自体の建造素材も確かに素晴らしいの一言だが、踏み込んでも物音一つたてない床や階段しかり、各部屋のインテリアも上辺でごまかす豪華さとは違う、いかにもハイクォリティーな仕上がりになっていた。

 いったいこの建造物に、どれほどのコストがかかっているのか想像も難しい・・・・・

 彼女が静かに席に着いた。

「どうぞ、御掛けになって。

二階は全て、少人数用のブッキングルームになっているから、邪魔は来ないわ。」

公一に席を勧めると、麗香は左手に見える海原に顔を向けた。

外はバルコニーになっていたが、着席したままでも景色を楽しめるよう、階段で少し降りる様に作られていた。

「だましたな。」

公一は唇を歪めると苦笑いを浮かべた。

 彼女は何も答えずに黙って海を見ていた。

 艶の有る長い黒髪がキャンドルライトに反射して揺れた。 

「俺だってドレスコードぐらいは知ってるんだぞ。

言ってくれればちゃんとそういう恰好で来たのに。」

公一がその横顔を見つめながらほほ笑えんだ。 

 「喧嘩、お強いの?」

相変わらずの姿勢で彼女が言った。

「全然。

喧嘩したことないし。

力は強い方だと思うけど、それはたぶん自分で車を直すんで、エンジンを載せたり降ろしたりしてるうちに、自然に力がついたんじゃないかな。」

彼も同じく湘南の海の方を向いた。

優しくそよぐ風はほのかに潮の香りを運んで来る。

あまりの心地よさに先ほどの蟠りが少しずつ消えていくのを感じていた。

 ギャルソンが厳かに部屋の中に入ってくると、ワイン・グラスを置き、それぞれのグラスに注いだ。  

 「あなたの車って相当チューンしてあるようね。」

グラスを持ち上げた彼女がようやく公一の方に視線を移すとそう言った。

透明感のある宝石のような瞳だった。

「いや、チューンはしてないよ。

最初からさ。」

彼もグラスを持ち上げると乾杯のポーズをとって見せた。

「嘘!

あんなポルシェ見たことないわ。」

「見たこと無いだろうね。

なんせ、世界に一台しかない車だから。」

公一はワインを口にした。

アペリティフはフランス産シャブリの白だ。

 その芳醇な味わいに思わず唸ってしまいそうになる。

 オードブルが運ばれて来た。

 ポワレしたフォアグラにトリュフ風味のブランディーソース、そしてダークバイオレットに染まった深い色合いを示す2㎜級高級キャビアで飾り付けがなされたものだった。

「それを、なんであなたが持っているの?」 

 興味津々の彼女の瞳をちらっと見た公一は

「せっかくだけど、このフォアグラってやつはあんまり好きじゃないんだ。」

 と言った。

「わたくし、あなたに質問しているのよ。」

 彼女は少し怪訝な表情を作った。

「レバーとか苦手でさ。

でも、これはいい香りがするから、いけるかもね。」

公一は彼女の言葉を無視して話を続けた。

 「・・・・・・」

 麗香は無言で食事を淡々と口に運ぶ公一を見詰めた。

まともに目と目が合うとその妖やしい雰囲気に吸い込まれてしまいそうなほどの鮮烈で美しい瞳だ。

「俺のことはどうでもいいじゃないか。

それより今日は、君がコブラについて何か教えてくれるって言うから来たんだぜ。」

笑みを浮かべる彼に会わせて、彼女も少しだけ笑みを返して見せた。

「私のテスタロッサはケーニッヒに依頼して、およそ良いと思われる世界中のパーツを使って特別に組み上げたものなの。

何度もテストして、フレームもエンジンマウントもボディーも特注だったのに、古い車に追い付けなかったなんて信じられなかったわ。」

フランベされたオマールエビにナイフを入れながら、麗香は悔しげに言った。

「それで仕返しに、こんないじわるしたんだな。

しょうがない子だ。

だいたい、あの伝説のAC・cobraだって相当な年代物だよ。

 それでも、とにかく、俺は伊豆スカイラインの伝説的記録を作ったのは、コブラだと信じてるけどね。」

公一は時折麗香の顔を見ながらそう答えた。

 その言葉に今までとちょっと違う表情を浮かべた麗香は

「あのポルシェでコブラの記録と勝負するつもりなの?」

と尋ねた。

 公一は黙って、ブランディー風味のフルーツカクテルデザートを口に入れた。

「私の話をまともに聞いてくれないのね。」

 麗香はじっと公一を見つめながらそう言った。

「君だって最初会ったとき、自分の言いたい事っきゃ言わなかったじゃないか。

 おあいこさまだぞ。」

公一はいたずらっ子みたいに答えた。

そして

「それより今悩んでることがある。

俺は何故、こんなにしてまで一生懸命走るんだろうってことをさ。」

「えっ?!」

麗香は突拍子もない言葉にちょっとびっくりしたように声を出した。

「俺、何故かあいつに乗っていると早く走ろうとする。

気持ちではそんなに思っていなくてもだ。

正直言って君の走る姿を一目見てゾクゾクした。

実は追い掛けていて、すっごく楽しかったんだ・・・」  

 公一は一息つくようにグラスの水を無造作に飲むと

「だけど本当には、自分ってものが分かってないんだ。

だからあの伝説のコブラと競ってみればその答えみたいなもんが出て来るかもしんないとは思ってるのは事実だ。

俺は自分のポルシェが好きだし、乗ってさえいれば最高なんだ。

それで良いのに、それだけで良いはずなんだけど満足しない。

まるで、終わりの無い夢をみているようなんだ。」

 と言葉を続けた。

 「何言っているのかさっぱり分からないわ」

  麗香は肩を竦めて見せた。

「俺が自分で何言ってるのか分かってないんだから、君が分かる訳無いよ。」

公一も同じ恰好をして見せた。

「あなたみたいな人、初めてだわ。」

 麗香はちょっとあきれた表情を浮かべた。

「ハハハッ

でもなんか俺今日は随分おしゃべりになってる。

多分、生まれて初めて、こんなに素敵な女性から、素敵な場所で食事のご招待をしてもらったせいだろうな。」

 公一は感慨深げにそう言った。

 「おもしろい事言うのね。」

彼女は薄くほほ笑みながら、不思議そうな顔をした。

「そうかな?」

「そうよ。」

「それよりコブラについて教えてよ。

言ったじゃない、ここにきたら教えてくれるってさ。」

 今度は彼が前方に身をのりだした。

「忘れちゃったわ。」

彼女も身をのりだしてきた。

小ぶりのテーブルだったので、二人の顔が接近した。

この世のものとは思えないほど美しく端正な顔立ちをした、妖しい瞳が公一を見つめていた。

その迫力にサングラスを掛けていなかったら思わず視線をそらしてしまっただろう。

 「えっ?」

麗香の瞳の魔力に公一は何を言ったのか一瞬聞き取れなかった。

 「わ、す、れ、た、って言ったの。」

 麗香はいたずらっ子のような幼い表情を作ると、またそう言った。  

 「なんだ、それ。」

公一は両手を広げて後ろに反り返った。

 それから、ゆっくり立ち上がるとバルコニーへ出た。

 石造りの手すりにもたれながら、宵闇の中、外灯に浮かび上がった葉山マリーナの船達が、まるで優雅にワルツでも踊っているかの様に見える、不思議な気分の夜だった。

第二章 伊豆スカイライン

2.1(スカイラインのタツ)

 伊豆スカイラインは、伊豆半島中央に位置し、峰を縦断する南北約40キロに渡って伸びる有料道路だった。

 箱根側は中高速カーブが連続する丘陵地帯に眺望豊かな展望台が点在するが、一方、天城高原側は緑深い山並みを縫うようにして走る、高低差の激しいカーブが連続する。

そのため、腕に自信のあるドライバーやライダー達が、方々から最高のコーナーリングを試みようと集まってきた。

夜間は料金所がフリーになるので走りやすいと言えるが、街灯などの設備がないため、過酷なヨーロッパのラリーコースさながらで、それなりの覚悟が必要だった。

もうすぐ夜明けを迎えようとする頃、二輪のトータルバランスでは現在世界最高水準に達する、スズキの旗艦GSX1100R、それを更にスープアップしたマシンが、ちょうどスタートを切ったところだった。

素晴らしいダッシュ。

ハイカム特有の伸びやかなエクゾーストノート。

 コーナー突入時に、メタルパッドがフローティングデスクを締め付けるとき発生する激しい金属の摩擦音。

靖国公一は、それを聞きながら、少し遅れてスタートした。

スロットルを踏み込むと、鋭いレスポンスに、タコメーターの針が弾かれたように跳ね上がり、その鉄の固まりは、まるで質量を無視したかのように加速した。

アフターバーナーを全開にしたジェット戦闘機の様な轟音が山間に響くと、レッドゾーンのわずか手前で、すかさず二速にシフトアップした。

すると、瞬く間に最初の右コーナーが迫っていた。

イケると、判断した公一は、ブレーキングを行わないで、そのまま突っ込んだ。

まだこの程度の速度域では何も起こる訳がない。

頭が振り回されそうな強烈な慣性力を感じながら、コーナーを鋭角的にクリアーした後、続く上り坂を、虚空へと羽ばたかんばかりに加速した。

左コーナーがあっという間に迫った。

坂の頂上付近であるため、出口は全く把握できない。

公一はカーブミラーをちらっと見て瞬時に状況判断すると、ブレーキペダルを踏みつけ、ステアリングを切った。

 トラクションのかかっていた後輪バネ下が一気に軽くなった。

初期タイプのポルシェでは最も気を付けなければならない処だ。

何故ならば、その頃のポルシェは、スウィング・アクスル・リア・サスペンションを採用していた為、キャンバー角が著しく変化するからだった。

荷重のかけられている間、タイヤは正ハの字形をしているが、それが抜けたときは、真逆の逆ハの字形になる傾向が強く、それはジャッキングと呼ばれ、突然バランスを崩すといった弱点があった。

 最も、後のセミトレーリング方式になってからは大幅に改善されたが・・・

公一の駆るこのポルシェは特別な形状のサスペンションでも取り付けられているのか、余程綿密な初期設計が施されているのか、それらのネガティブな部分は少なく、ニュートラルなハンドリングを見せた。

素早くカウンターステアを当てただけで車体の横流れをコントロールすると、すぐ加速に移った。

そこからは下りの直線路だ。

 ポルシェはまるで戦闘機の急降下を思わせる音とスピードを見せつけた。

 ドライビングシートから浮いているのではないかと錯覚しながらも、慎重にスロットル操作し、続く大きな下りの右コーナーへアプローチした。

 先程、公一の前にトゥールゲートを出たGSX1100Rのライダーが、まさにコーナーリングしていた。

色鮮やかなレース用革つなぎを身にまとったライダーが立ち上がろうとしているところで、公一のポルシェが追い付いた。

フロント・カウリングに備え付けられた砲弾型といわれるバックミラーでそれを確認したライダーは、自らも後方を一回見てから、スロットルグリップを大きく捻った。

恐ろしく抜けの良い音が響いた。

それはGSX1100Rに装着されているUSA製エクゾーストシステム、KERKER (カーカー)からのものだ。

見せ掛けを売り物にしている製品と違って、レース経験から、あらゆる状況に応じてその性能を充分発揮出来るよう、設計されているため、上辺では判断出来ない底力を持っていた。

それから、しばらく二台はランデブー走行した。

前方に見通しのよい左コーナーが迫った。

ライダーはあまり減速もしないで突っ込むと、マシンを寝かせて間もないにも拘わらず、スロットルグリップを捻ってエンジンの出力を上げた。

 急激にトラクションの加わったリア・タイヤはたまらずパワースライドを始めた。

 ライダーは不安定に流れる前輪と後輪を巧みなスロットルワークと加重移動でスライド量をコントロールすると、アスファルトにタイヤが溶けて作る、ブラックマークを刻み込んだ。

 二輪車の場合、流れた後輪を制御させるため前輪を駆使するが、事実上オーバーステアにはなりづらい。

 しかしこのライダーは常識を逸脱していた。

恐るべきスピードでコーナーを旋回すると、積極的にリアタイヤのスライドを利用し、最小限の減速だけで、そのまま立ち上がって行った。

それから、長身のその体をフロント・カウリングの中に巧みに潜り込ませると、マシンと自分を一心同体化させ、大気の壁をぐんぐん切り裂いた。

 まさにオートバイの醍醐味ここに極まれりだ。

 すぐに直線は終わり、ライダーはカーブの手前でさっと上体を起こした。

 スクリーンから背中を伝わって流れていた空気の流れが怒涛のごとく体を押し戻した。

これが二輪の世界で言う、エアーブレーキといわれるもので、空気抵抗を増加させることで、ライダー自らをブレーキとして利用するのだ。

航空機のスラストリバーサーや、スポイラーのようなもので、それと同時に彼は最初リアブレーキを優しく踏み、サスペンションのよけいな動きを制御しておいてから、フロント・ブレーキを強く握った。

ニッシンレーシングブレーキの強烈なストッピングパワーにアンチ・ノーズ・ダイブの効いたショーワの強化フロントフォークですら、たまらず限界近くまで沈み込む。

二輪はブレーキング時、その特性からフロントに大きくGが掛かる。

従ってリアのGが0kg以下になることは珍しくない。

特にレース中などでは、最悪の場合には浮き上がってしまうことすらある。

 前輪を軸に竿立ちとなる、ジャックナイフとも言われる現象だった。

 絶妙のタイミングでブレーキングを終了させたライダーは、ステアリングをコーナーの外側に気持ち切ると、上体を大きく落とし深々とハングオンをして見せた。

先程と同じようにマシンを寝かせて間もなくアクセルを開けパーシャル状態のまま一番傾いている地点、つまりクリッピングポイントまで来ると、その頃には既にパワースライドを開始していたGSX1100Rは、またもアスファルトに黒々とブラックマークを刻み込むと、ミサイルの様なダッシュでコーナーを立ち上がって行った。

コーナーのRなど関係ない感じのダイナミックな走方を披露するライダー。

後ろからそのライディングセンスの高さを公一は認めていた。

そして、このポルシェだからこそ対等に走れるのだろうなと感じていた。

それからまた、しばらく高速のランデブーを楽しんでいるとライダーが左にウィンカーを出した。

伊豆スカイラインの中間点にあたる亀石峠レストハウスに入ろうというのだろう。

数多くの飛ばし屋が立ち寄る、オアシスのようなところだった。

 しかし、まだこの時間ではレストハウスの扉は開かれてはいなかった。 

大きなパーキングエリアの端で、二台は並べて停車した。

ライダーはサイドスタンドを出すと、マシンからゆっくりした動作で降りた。

公一もポルシェのメイン・スウィチを切った。

 辺りは一瞬にして静寂に包まれた。

「久し振りに、一緒に走れて面白かったっす。」

ポルシェのピラーに手をかけた長身でハンサムなライダーは、顔をくしゃくしゃにして笑顔を作った。

「相変わらず豪快と言うか、無茶と言うか・・・」

公一は眉をしかめながらほほ笑んだ。

「ハハハッ、そっちこそピッタリと、来てたじゃないですか。

どこで抜かれるのかなって思ってましたけど・・・・」

そう答えながら、こわばった体を軽く左右に振るこの男こそ、二輪ではその類い希なライディング・テクニックにより、この伊豆スカイラインに於いて、現在無敵と言われている、スカイラインのタツの異名を持つ岸口達也だった。

「こっちは四つもタイヤがあるんだぜ、全く・・・

でも、例の下りの右コーナーは未だに苦手なんだな。

あそこで、一気に追いついたんだ。」

公一はいたずらっ子のような目で彼の顔色を窺った。

「まいったな、何となくね。」

頭の後ろをポリポリと掻く彼は、そこで、大転倒を演じたことがあるのだった。

良い友人とゆうものはなかなか数少ないものだと思う。

五才違いの岸口達也は、年下とはいえ、靖国公一にとって、かけがえのない親友だった。

公一はガルウイングドアを跳ね上げると、幅の広いサイドシルを一気に跨ぎ、ポルシェを降りた。

「いつ見ても、このドアは超かっちょいいっすね!」

タツは楽しそうにドアに触った。

「ありがとう。

この当時は、こうしないとボディー剛性確保出来なかったらしいんだ。

この全体のデザインもだけど、必然から生まれた造形って事になってるみたいだけどね。」

公一は長身である彼の隣に立った。

「靖国さんは車になっちゃったけど、こうして一緒に走ると、相変わらずみたいで安心しますよ。」

タツが笑った。

靖国公一と岸口達也は、以前同じバイクのツーリングチームを組んでいた。

全部で5人。

小さなグループで、それぞれに個性が強かったが、腕を磨き、愛機の性能を目一杯引き出したいという、同じ気持ちで纏まっていた。

岸口のように峠を極めたい者、高速道路でスピードを極めたい者もいたが、見る人によっては、まるでアクロバットのように、生き物のようにバイクを手なづける者もいた。

お互いが尊重しあっていたし、方向性は違っていても、何より、同じ感性を持っていた事で、固い絆で結ばれていた。

「893で、コブラとやるんですか?」

スカイラインのタツが尋ねた。

「別に競わなくても、記録を敗れば良い訳だから。」

公一は目一杯背伸びをした。

「でも、靖国さんはやりたいんでしょ?」

タツが心の中を見透かしたように言葉を続けた。

「まあな。

本音は、直接会ってみたいって思ってるんだ。

ここで、その伝説を作ったって人とね。

もし出来るなら、競い合いたいけど、どんな人か分からないからね。

いろんな意味で、がっかりもしたくないけど、伝説のタイムは真実だとは思ってるよ。」

公一は、親友だからこそ、正直な気持ちを打ち明けた。

空がうっすらと明るくなってきた。

後続のライダー達がポツリポツリ入って来ると、少し離れた場所に停車した。

「見ろよ、誰もこっちに来ないぜ。

みんな、有名なタっちゃんに、恐れをなしてるんじゃない?」

公一は冗談っぽく言うと、お馴染みのジャンパーのポケットからチューンイグガムを取り出して彼にも勧めた。

「嘘だ。

こんな怖そうな車があるからですよ。」

軽く頭を下げて、ガムを受け取りながら岸口達也は答えた。

「まだここで君の前を走るやつはいないんだろうな。」

公一は板ガムをクルクル巻いて口の中にほうりこむと尋ねた。

「ええ、ここではやっぱり負けたくないですね。

思い出多い場所ですから。」

岸口達也は少し遠くを見る様な瞳をしてみせた。

彼の演じた大転倒は、伊豆スカイラインを初めて走った日に起きた出来事だった。

本体からクランクシャフトすら突き出る程で、マシンは即廃車となり、彼自身も重傷を負ってしまったのだが、それが、かえってこの道に魅せられる結果となった経緯があった。

「ところで、濃紺のテスタロッサを見掛けるかい?」

更に公一が尋ねた。

「湘南のローザですか?

ものすごく腕が立つ上、超美人で、しかも大金持ちだって噂の・・・」

「そう。」

「俺は見てないけど、地元の奴が見たって言ってましたよ。

もしかしたら、彼女もコブラのタイムに挑戦するんじゃないかって、もっぱら噂になってます。」

達也は、何かあるのかな、といった表情で公一の顔を見た。

「あのぅ。

すみません。」

二人は背後から声を掛けられた。

 会話に水を指したのは若い女性ライダー達だった。

「タツさんですよね?」

「そうだよ。」

岸口が明るく答えた。

「わぁ、やっぱり。

ちょっとお話ししても良いですか?」

彼女達は嬉しさのあまり、その場で小躍りした。

「いいよ。

じゃ、すんません。」

岸口達也は公一に一礼すると、その一人の肩に馴れ馴れしく腕を回し、彼女の仲間たちの方に歩んでいった。

そういう訳で、彼は二輪だけでなく女の子にも何やら早いとゆう噂だったのだ。

あくまでも、噂だが・・・

公一はポルシェに人だかりが出来てきたのを確認すると、大騒ぎになる前に出発することにした。

エンジンを始動させると、その音に気づいたスカイラインのタツは、笑顔で手を上げた。

公一も、気持ちよくそれに応えると、天城高原側へと、ステアリングを切った。

2.2(ヨコハマ・ベイサイドバー)

晩秋の横浜。

 どこからか古びたジャズが流れるトワイライト・タイム。

 山下通りの街頭が音もなく仕事を始めだしたころ、港の見える丘公園の曲がりくねった坂を、ロー・ギヤを使って下りて来る一台の大型バイクがあった。

AMA(アメリカン・モーターサイクル・アソシェイション)用で強化された足回りに、同じくチューンナップされたエンジンを搭載した、その艶やかなライムグリーンに彩られたマシンこそ、名手エディー・ローソンが、アメリカのスーパーバイクレース1000CCクラスに於いて、一大旋風を巻き起こしたチーム・カワサキの旗艦KZ1000Rだった。

川崎重工業製、空冷DOHC・4気筒、古典的な8バルブの大型エンジンは、その比類なき高耐久性から、国外ではビッグZと称され、多くのファンを魅了していた。

4バルブが常識となった今では、地味なエンジン構成のようだが、設計当初から過剰品質に開発された経緯を持っているため、いわゆるチューナップなど施した際に起こりうるトラブルが発生しづらい。

そのため、ビッグZはあなどれない実力を秘めていた。

頭文字のKは対米輸出車を意味するが、このマシンはレース用とは違い、低中速重視でスープアップしてあった。

 だが、それでも、フルクロスレシオのため、ギヤ比が高めになっているせいか、ロー・ギヤを用いても、下り坂ではグングン車速が伸びる。

 マシンを巧みに左右に翻す、綺麗なライディングは、あたかも水の中を泳ぐ魚のようだった。

 街頭の光を浴びた、車体色のライムグリーンは、そのたびに表情を変化させ、何とも言いようの無い妖しい色彩を放っていた。

坂を下りきったKZ1000Rは、そこから石川町方面へと、フランス流イエロー・カラーのH4ハロゲン・ヘッドライトを向けた。

夕刻の元町通りはさすがに華やいでいるが、一本、道を隔てれば人通りは随分と減る。

 その一角に、かなり前に建てられたと思われるレンガ張り鉄筋コンクリート造の建物が在った。

一階は洋酒の専門店で、地中海風の半円形の窓からは石油ランプによるオレンジ色の優しい光が漏れている。

その脇に幅の狭い階段が付いていて、そこを下った地下は、落ち着いた感じのバーになっていた。

今はやりのカフェ・バーなどと違って、その店は本当に酒好きの人間達が集まって来る、ドイツ料理店だった。

その店先に敷かれた、幅の狭い歩道に沿ってKZ1000Rは平行に停まった。

再始動時のガス濃度を上げるために、ライダーは素早い空ブカシを入れてメイン・スウィッチを切った。

 低い唸り声を上げてエンジンが停止した。

 漆黒のジェット型ヘルメットを脱いだ頃、彼の耳に聞き慣れたエクゾーストノートが飛び込んできた。

そちらの方を見ると、大型のオートバイがゆっくりと近づいて来た。

ヤマハが作り上げたストリート・ドラッグ・レーサーの異名をとるVMX12、即ちVMAXだった。

 こちらも明らかにノーマルとは違ったトーンのエクゾーストノートを放っていた。

それもそのはずで、このマシンは元来1200ccの総排気量のエンジンを1400ccにボアアップし、加えてスーパーチャージャーを装着していた。

VMAXの特徴となっている左右の軽合金製エア・インテークの直下に武装され、それは左側グリップの近くに設けられた専用のプッシュボタンで作動するようになっていた。

高出力エンジンに伴って行われた各セクションのチューンナップのおかげで、独特のスタイルは更に物々しく凶暴なものになっていた。

KZ1000Rのすぐ後ろに停めたライダーはVMAXのエア・インテーク上、ダミータンク前部右側に隠れるようにして付いているメイン・スウィチを捻ってエンジンを停止させた。

ふたりは軽く言葉を交わしながら地下のバーへと階段を下りた。

フロアはテラコッタになっていて、壁は半分から下が、タイル状に貼られた古い焼き煉瓦で、それ以外は漆喰だった。

天井の梁がアルプス地方を感じさせ、壁際にピアノが置かれ、アコーディオンや、バイオリンが、無造作に壁掛けされていた。

壁際の4人掛けのテーブル・セットに腰掛けると、馴染みのスタッフに、ハイネケンのドリンク・ピッチャーとドイツ、バイエルン地方特産の荒びき肉アルトシュタット・ソーセージのソテーをオーダーした。

二人は、黒い厚手の革製のジャケットとパンツを身にまとっていた。

それには各間接部や大腿部の外側にプラスチック製の大袈裟なパットが装着され、あらゆる状況のダメージを軽減させる役割をもっていた。

それに加えて、前部にステンレス板を備えた非常に肉厚のモトクロス・ブーツを履いていた。

ストリート・ファイターを自称するライダーが、こういう出で立ちを装う訳だが、彼らほど着て似合う人間たちはあまりいない。

何故ならば、2人はそれほどの装備をしても尚、誰が見ても分かるほど素晴らしい逆三角形の体型をしていたからだ。

ストリート・ファイター達の間ではKZ1000Rを操る男は、掛川のロードボンバー(陸上の爆撃機)と呼ばれていた。

 本名は高城和雅といい、彼の駆るこのマシンが静岡ナンバーでもないのに何故そう呼ばれているのかは不明だった。

そして、VMAXを操る男は、ガルフ・ウォリア(湾岸通りの喧嘩屋)と呼ばれていて、本名は香川秀彦という。

パワーを生かしたダイナミックな走法と、恐れを知らぬライディング・テクニックにより、その世界の人間たちには、かなり有名な存在だった。

馴染みのスタッフが、テーブルに料理を乗せると

「何か、リクエストありますか?」

と、いつもの事のように尋ねた。

ここのスタッフは、みんな音楽好きで、楽器が演奏できるのだった。

「もうちょっと、いつものやつが来てからじゃないと、ふてくされるといけないからさ。」

香川がそう言った。

その彼らが2杯目のオーダーを出したときだった。

入口の木製の大きなクラシック・ドアから、靖国公一が入って来た。

リーバイス501のストレート・パンツに、ナイキ製ダーク・ブラウンの革製ウォーキング・シューズ。

今日はロバートコムストックではなく、重厚感のあるラングリッツのライダースを着ていた。

「どうした?

遅かったじゃない。」

ガルフ・ウォリアこと香川秀彦が眉を上げた。

「いやぁ、ごめん。

横浜で仕事だったから、たまにはここに来たいなって思ったんだけど、なかなか終わらなかった。」

公一は済まなそうに合掌をすると、椅子に腰掛けた。

「分かったよ。

まあ、とりあえず・・・」

香川がピッチャーからグラスにハイネケンを注いだ。

「お疲れ様です。」

高城が自分のコップを持ち上げた。

香川は同世代、掛川のロードボンバーこと高城和雅は岸口達也と同じく五つ年下だった。

 だが、高城和雅は、それほど年が離れているとは思えない落ち着きをもっていた。

人の悪い奴は、それをめちゃくちゃふけてるなどと言うが、仲間内で、その言葉はタブーとされていた。

「いらっしゃい。」

馴染みのスタッフが笑顔で近づいた。

「リリー・マルレーン聴きたいな。」

公一が、ニコッとした。

「本当に好きなんですね?」

スタッフはそう言うと、壁にかけてあったアコーディオンを取った。

リリー・マルレーンは1938年に制作された、ドイツの歌謡曲で、戦場に出された兵士が女性を思った詩が、第二次大戦下、敵味方分け隔てなく、心を揺さぶられたと言う逸話があった。

だが、それとは逆に、歌ったララ・アンデルセンの友人にユダヤ人がいた事から、わずか数年で廃盤とされ、歌手活動を剥奪された上、歌詞も変更されるという、悲しい成り行きがあった。

それに留まらず、その後、ベルリン出身のマレーネ・ディートリヒによって歌われる事となったにも関わらず、アメリカの市民権を得、女優として、連合軍を慰問した事から、これを歌ったディートリヒは反逆者と見なされたという、曰く因縁まで持つ曲だった。

とはいえ、その寂しげな中に、かすかに楽しげな雰囲気を感じさせてくれる旋律は、やはり、逸品であることは間違いがなかった。

ピアノとアコーディオンによる演奏が始まった。

この店は、どちらかというと、マレーネ・ディートリヒのスローテンポで聴かせてくれるが、どちらかといえば、公一はこっちの方が好きだった。

だから、ドイツを感じさせてくれる、この店に来ると、リリー・マルレーンを、どうしても、聴きたくなるのだった。

演奏が終わると、店のあちこちから、自然に拍手が起きた。

「明日なんだけど、千葉県の射撃場、空いてるそうだよ。」

 拍手を終えた公一が嬉しそうに、笑った。

「ほんとに?!

よーし。」

二人も拍手を終えると、ガッツポーズを作って見せた。

彼らも、岸口達也同様、バイク仲間であり、靖国公一の親友だったのだ。

それから、三人は、美味い料理とビールをたらふく味わい、語り合った。

このときばかりは、最高に気の置ける連中と、本当にくつろいだ夜を送った公一だった。

       2.3(千葉県射撃場)

房総半島には、東京湾側の国道127号と、その反対の太平洋側に128号があり、その両線を結ぶように国道297号が半島を横断していた。

早朝、久しぶりに横浜で再会した靖国公一と友人たちが、クレー射撃をプレイするため、その297号を走っていた。

 国道の中程に、房総半島南部地域の水脈を賄う高滝ダムが存在し、近年、放流した外来魚目当ての釣り客が、週末になると、 ぞくぞく集まるほどの人気ぶりを示してはいるが、数年前までは、深い木々に覆われた小さな山里の村落だった。

 そんな人の少ない環境からか、古くから射撃場が存在していたのかもしれない。

 ダムにかかる特徴的な鉄骨の赤い橋を渡りきった先の信号を右手に曲がると、しばらくして、彼らの今日の目的地である射撃場があった。

山頂付近を切り開いて造られたその施設には、クレー射撃とラージボア・ライフル射撃が出来るようになっていた。

クレー射撃のクレーとは、即ちあのターゲットとなる皿状の飛行物体の事を言う。

 クレー・ピジョンと呼称されるそれは、外側を白色に内側を黒色で塗り分けられたタールを素焼きして造った直系15cm程度の物で、ちょうどアシュ・トレイをひっくり返した様な形状をしている。

 元々ハンティングに由来を持つ競技なので、この皿をピジョン、つまり鳩と呼ぶわけだ。 

 現在は、スキートと呼ばれる近距離射撃と、トラップと呼ばれる遠距離射撃の二つの競技によって行われている。

 勿論、一つの銃で、これらをこなすことは可能だが、距離、方向、射撃方法等、異なる性質の項目が多々存在することも事実なので、通常、各々専用の銃を使用する。

 射撃場の設備は、正面から向かって左よりスキートA及びB、並んでトラップA及びBの順に設営されていた。

Bに比べAはクレーの発射速度が速く、公式競技は通常Aを使用する。

3人は到着すると、受付のある管理棟に向った。

「トラップAを使いたいんですが?」

靖国公一がそう言った。

「恐れ入ります。

本日は貸し切りになっています。」

窓口の者が言った。

「えっ?

だって昨日は大丈夫だって言ってたじゃない。」

公一は怪訝な顔付きで受付の男を見た。

「申し訳ございません。

一日中ではなく、今の時刻は貸し切りになってます。」

受付の者が本当に申し訳なさそうに答えた。

 「じゃあ、トラップBは?」

公一は予約した責任があるので、すぐには納得できず、そう尋ねた。

 「そちらは使えます。」

受付の者が頭を下げた。

仕方なく、時間が来るまで、トラップBを使う事にした彼らは、スコアカードを受け取ると、いかにも歯切れの良い銃の撃発音が聞こえた。

公一は、建物の中を通り抜けたところにあるガラスドアを開けて、裏手の射撃場へのアプローチに出た。

管理棟とは高低差があり、30段以上はある階段を下りると、非常に広々とレイアウトされたクレー射撃施設が広がっていた。

階段は大規模な観客席の一部でもあり、球場施設のような作りになっていた。

ナイロン製の屋根を持つ射手スペースの他は総て手入れの行き届いた芝が植わっていて、弾止めの土手、つまりバック・ストラップは安全上高くなっているのは当然だが、その上にはどこまでも澄んだ青空が広がっていた。 

本来射撃場というものは、どちらかというと閉鎖的イメージが強いものだが、それらの視覚的効果から、ここは、解放感に満ちていた。

銃の撃発音がした。

それは勿論、トラップAからだった。

大会の時期ではなく、ウィークデーということもあってか観客席は無人だ。

スキートの方には誰もいなかったので、まるで一人が貸し切っているようにも見えた。

 射撃スペースの裏手にある芝に停められている一台の車が確認出来た。

朝日の下に艶やかな光沢を放つ流麗にして精悍な濃紺のボディーはフェラーリ・テスタロッサだとすぐに分かった。

彼らは階段を下りきると、車の停められている芝を横切り、トラップAの射撃施設を仕切る1メートル程の高さの低いフェンスのところから、見学を始めた。

シューターが次の射台に移動するのが見えた。

 もちろん公一には、あの湘南のローザ、御門麗香だとすぐに分かった。

「女の人が一人居るだけですね。

凄くスタイルの良い人。」

高城和雅が言った。

「まさか一人で貸し切りってことはないだろ。」

香川秀彦も付け加えた。

「少なくとも、トラップAに関しては、きっと彼女一人だよ。」

公一が答えた。

「そうかぁ?

だって、ありゃ、どう見ても、テスタロッサだぜ。

ただでさえ幅広いボディーを更に改造してあるのはトレッドを広げたからだろうけど、テスタってパワーステアリングじゃなかったよな?

それに横浜ナンバーだぞ?

あんな車を、女がここまで運転して来たっていうの?

きっと彼氏がいるはずだよ。」

 胡散臭そうに香川秀彦が答えた。

 「彼女の車だよ。」

公一が断定した。

「ヤス(靖国公一)、彼女知ってるの?」

香川は不思議そうな表情で公一を見た。

 「ああ、ちょっとね。」

彼女の方を見たまま公一が答えた。

「アッ!」

澄んだ若い女の声が聞こえた。

 すぐに飛び出したクレーは歯切れの良い撃発音と共に、初矢で砕け散った。

トラップ射撃の場合、シューターが射台に入り、薬室に装弾すると、挙銃姿勢を取って合図を送るルールとなっている。

 競技施設中央にはプーラーハウスと呼ばれる小屋があり、ここには審判や関係者が在中していた。

 各射台の前にマイクロフォンがありプーラーハウスのスピーカーが射手のクレー射出の合図を受け取とると、その係員が手動で射出ボタンを押す。

 通常0・4秒以内にクレーピジョンは放たれるようになっていた。

 現在日本において多く使用されているかけ声は分かりやすく簡単明瞭な単発音がほとんどで

 「はっ」「あっ」「おっ」といった具合に発音する。

 トラップ競技は通常6人でプレーする。

1m角に白枠でペイントされた射台が約2m間隔で五つ並べられており、左から順に1〜5番と呼ばれる。

 6番目の射手は1番の後方で待機する。

 そして1番から順に撃って行く訳だ。

 ターゲットとなるクレーは、各射台の15m前方の地下から射手と反対方向に90度の範囲内を不規則な角度で飛ぶ。

 どこへ飛ぶか分からないクレーを、構えた銃を振りながら追い掛けて撃つ、所謂スウィング射法と呼ばれる撃ち方をした。

ダブルトラップ競技を除いて、通常は一射台に一枚ずつのクレーが放出され、一人25枚で1ラウンドとなる。

一枚のクレーに対して、シューターは2発まで発射が許され、それぞれを射撃用語で初矢、二ノ矢と呼んだ。

5番射台まで行った彼女が、1番へ戻るため、振り返った。

 集中していたからか、そこで、こちらに気付いたようだ。

彼女はディコット社製のシューティング・グラスを掛けたまま微笑んだ。

射撃専用のサングラスは当然上目づかいになっても良いように、鼻当ては通常より低い位置にセットされている。

かけるとレンズはかなり顔の上側にくるため、正面から見ると、表情に少し違和感が出るのだが、彼女にそんなところは全く無い。

 高品質のペンドルトン・バージンウール・シャツにトラップ専用のシューティング・ベストを着け、リーバイス525にレッドウィングのワークブーツを履いた彼女が、さりげなく着こなしている様は、まるで海外の雑誌にピンナップされているスーパーモデルのようだった。

天才ジョン・ブローニングが設計し、ベルギーの銃器メーカーFN(ファブリケ・ナショナル・デルスタイル・ド・ゲール)が製造した、元折れ型上下二連銃の薬室を開き、備え付けの銃架に置いた麗香が、プーラーハウスに一言声を掛けると、こちらに向かって歩いて来た。

高性能である事から、シューター憧れとして、古くから君臨し続けている銃だった。

「奇遇ね。

靖国さんも、射撃されるの?」

ヘッドフォンタイプのイヤープロテクターを外しながら、爽やかな笑顔で、公一を見た。

「まあね。」

 公一が答えた。

「今日は一時間こっち側を貸し切りにして貰っているんだけど、良かったら御一緒しない?」

「君さえ良ければね。

友達も一緒だけど良いかな。」

「勿論よ。」

麗香は快く返事した。

この前のとげのある態度とは少し違う印象を持った公一だった。

「よし、車をこっちに回してくるよ。」

「OK。」 

麗香は艶のある長い黒髪を風に翻すと、また射台へと戻って行った。

「おいっ、どうなってんのか、説明してくれよな。」

香川秀彦が興味津々の表情を浮かべてそう言った。

公一は元来た階段を上りながら、彼女との出会いについて、二人に簡単に説明した。

「あれが、噂の湘南のローザか。」

香川は彼女の方を振り返った。

「僕も始めて見ましたけど、いやぁスッゴイですね。

スタイルは抜群だし、サングラスしていても絶対に美人だって分かりますよ。」

高城和雅は興奮気味に顔を紅潮させた。

「金持ちって聞いてたけど、公共施設を突然貸し切りとはね。

何かコネでもあるんだろうけど、彼女、金持ちってだけじゃなく、ハーバード大学出だって噂を聞いたな。」

香川秀彦がそう言って公一の顔色を窺った。

「なんだよ。

そっちの方がよっぽど詳しいじゃないか。」

公一は呆れ顔をした。

「一時期、湘南のローザに関して、結構な噂になってたじゃん。

超美人の走り屋、家は大金持ちで、メンバー制のレストランのオーナーだとか・・・

そう言えば、白い薔薇がトレードマークだったっけ。」

香川が思い出したように、そう話した。

駐車場から競技施設へ回る道は、観客席の脇にあり、緩やかな寄曲線の下り坂になっていた。

その途中には、ラージボア・ライフルの100mレンジのインドア・シューティング・センターが見える。

 ライフル射撃の醍醐味はなんといっても刹那の緊張感に尽きる。

 遙か遠くのターゲットを見やり、ここぞというときにトリガーを落とす。

 それは勿論自分のタイミングで良いわけで、だめだと思ったときは銃を一旦下ろしても良い。

そこが一度ピジョンを放出されたら後戻りが出来ないクレー射撃と違っているところだ。

 ライフルの最大到達距離は、ラージボア(大口径)では3000mにも達し、初速は音速を超えるものすら存在する。

 孤独で集中力のいるスポーツだ。

 近年日本人でも世界的に活躍をする選手が出現しているということは、特に銃環境に於いてこれだけ制約の多い国としては大したものだと感じる。

3人はラージボア射撃施設の終わりごろを右に折れクレー射撃施設へと向かった。

到着するとフェラーリ・テスタロッサに揃えて停めた。

靖国公一はポルシェのパッセンジャーズ・ドアを開けて装弾ケースとスポーツバックをそれぞれ三つずつ、そしてニッサンミロク製トラップ専用銃5000Tの収められているジュラルミンのガン・ケースを取り出した。

この銃は金のかかった彫金などあまり施されておらずシンプルな感じだが、その特徴であるハイ・リブや、熱によるかげろう防止の為連結していない上下銃身が非常に迫力あった。

 公一はこれを拳銃のパイソン357リボルバーの大きいやつだ、などと決めつけ、結構気に入っていた。 

 香川はSKB製、高城は公一と同じニッサンミロク製だがこちらはオーソドックスなレイアウトと、数々の実績を誇る2800シリーズを使用する。

 二人は、ポルシェの室内からそれぞれ公安委員会で許可を受けた銃の入った銃ケースを取り出した。

 クレー射撃のシューターは、圧倒的に元折れ型上下二連銃を使用する。

 その理由は、なんといってもトータルバランスにある。

 適切な重量配分により、火薬を撃発させ、弾を発射したときの銃口ショックが非常に少ないのだ。

 いわゆるマズル・ジャンプと言われているもので、銃口から銃床にほぼストレートにショックが抜ける上下二連銃と違うタイプのショットガンだと、激発時のショックで銃身の先端が大きくぶれる。

 結果、弾道がバラつくため、スコアへの影響が無視できないということから、現在元折れ型上下二連銃を射撃専用銃とする訳だ。

銃身の下側はインプルーフド・モディファイド・チョークと呼び平筒銃身より銃口が0.75mm絞ってある。

 そして上側銃身はフル・チョークと呼ばれ1mm絞ってある。

散弾はライフル弾と違って、実包と呼ばれる60グラム程の円筒形樹脂ケースの中に、いわゆる大物猟の時使われるライフルド・スラッグ弾と呼ばれる一発弾を抜かせば、全て、鉛或いは鉄製の球体の粒が詰められている。

 それは、OOBと呼称される直径5mm程の9粒弾から始まって1〜9号の順に小さくなって行く。

一般にトラップ競技では7.5号が使用され、火薬を撃発させると銃口から約200粒の散弾が発射される。

発射された散弾の飛行中の長さを射撃用語ではショットコロンと呼び、その開く大きさをパターンと呼んだ。

当然ターゲットが近くのとき弾膜は大きい方が良く、遠のけばパターンを絞って弾間を狭めた方が、撃破効率が高い。

従ってシューターは、先に下側を発射させる訳だ。

 香川秀彦と高城和雅は、スポーツバッグを持って、ウェイティング・ハウスで着替えをした。

ラフだが、それでいて清潔感のあるスッキリとしたスタイルになる。

靖国公一は、ヘインズ・コットンのハイ・ネック・シャツの上にトラップ専用のシューティング・ベストを羽織った。

リーバイス501のライトストーンウォシュされたパンツに、コンバース・コーンズのレザーシューズといういで立ちだ。

シューティンググラスは持っていたが、しっかりと顔に合った、レイバン50のキャツアイサングラスで十分だった。

 1920年の後半、陸軍航空隊仕様のray(光線)ban(遮断する)サングラスをボシュロム社が作ったのがレイバンの始まりと言われている。

 特に1950年代に製造された物の内、非常に出来の良かった物には50(フィフティー)の称号が与えられている。

公一の掛けているバロラマは、ブ厚いセルロイド製の黒枠で、左右の、つるからつるまで一直線にフラットゴールドメタリックのラインを持つ無骨なデザインと、実によく顔にフィットするよう大きくカーブされたところが特徴だった。

 よくある安物の軟弱なサングラスでは及びもしない重厚な逸品だ。

 そしてその要となるレンズはタイプG15と呼ばれ、設計当時から85%の紫外線と75%以上の赤外線を吸収するのにも拘わらず、自然の色を損なわないというすぐれ物だった。

公一は皆がウェイティング・サークルに集まった処で、麗香に彼らを紹介した。

二人は笑顔で交互に挨拶を交わした。

「お名前は初めてお聞きしましたけど、オートバイを見てすぐに分かったわ。

お噂はかねがね伺っております。」

彼女は少女のようなまっすぐな瞳を向けてそう言った。

「よく言うよ。」

香川秀彦は唇を歪めて苦笑いを浮かべた。

 それぞれ銃を点検すると早速第1ラウンドが開始された。

1番射台に御門麗香、2番に靖国公一、3番に香川秀彦、そして4番に高城和雅という順だ。

麗香はシューティング・ベストの前ポケットに無造作に入れられた12番ゲージ実包2発を取り出すと、上下薬室に装填した。

 銃の先台を持って、空に向かって振り上げロックする。

カチンッという軽い金属音と共に銃は本来の姿となった。

 薬室を閉める場合、射撃場では銃口を上側に、猟場は下に向かせるのがマナーであり安全だ。

麗香は挙銃姿勢に入った。

床尾板を肩付けし、銃床にほほを当てる。

 スタンスが決まると、そこで右手の人差し指をトリガー(引き金)に掛けた。

「アッ!」

澄んだ声と同時に白いクレーが左方向へ、地平線から約20度の鋭角的な角度で発射された。

 銃と一心同体化した上半身を腰から下の、下半身のバネを使ってクレーの飛行線上をスウィングする。

銃口上部に取り付けられた照星がクレーと交差すると彼女は空かさず引き金を絞った。

イヤー・プロテクターを掛けている耳に、それでも弾けるような音が聞こえると、クレーはほぼ中心を捉えられ粉々に砕け散った。

麗香は挙銃姿勢を解くと、ストッパー・ノブを捻って薬室を開く。

再びブローニングは、薬室から、くの字に折れ曲がった。

 その動作と機械的に連動したイジェクターによって下側の薬室から弾を発射された空薬莢が飛び出した。

彼女はそれを器用に左の手の平でつかむと、自分の前方に放り投げた。

 そのままイジェクター任せで薬莢を射手後方に飛ばしてもルール上なんの問題もないのだが、円筒形の薬莢が散らばっていては見栄えが悪いだけでなく、足下が不安定になる。

 しがって射撃場に慣れたシューターは、こうして誰にも迷惑のかからない場所に空薬莢を放り投げるのだった。

麗香は上側の薬室に残っている未使用の実包を自ら引き抜くと、右方向にずれた。

射台以外の場所では薬室を空にしておくのがマナーだからだ。

次は靖国公一の番だ。

 世界的にみてもコスト・パフォーマンスの高いニッサン・ミロク5000Tに実包を装填すると、薬室をロックして挙銃姿勢に入った。

ハイ・リブの為、顔がそれ程前屈しないので頬づけしたときの目線の変化が少ないのが特徴だった。

強化焼き入れを施されたレイバングリーンのオーソドックスなタイプのシューティング・グラスの奥で視点を定めると、公一は瞬間的な精神統一に入った。

「オッ!」

掛け声と供に、クレーは右45度の角度で飛び上がる。

すっと、飛行線上をスウィングさせて、彼もまたターゲットを初矢で撃破した。

香川秀彦と高城和雅もそれぞれ見事に初矢で終わらせた。

彼女の二順目になった。

今度は掛け声の後クレーはゆっくりと真正面に上がる。

 クレー射撃を志す者の初心者射撃教習はこうした正面のみを25枚打つ。

 麗香は初矢を放った。

しかしまだクレーは上昇を続ける。

空かさず彼女は二ノ矢を放ったが、クレーはそのまま緩やかに下降してバックストラップに激突し砕けた。

「ゆだんしたかな?」

公一がいたずらっ子のようにして麗香を見た。

「イーダ。」

歯を見せて笑うその表情は彼女が見せた初めての素直さのように思えた。

正面は一見簡単そうだが、クレーは、回転しながら飛行している事と、それほどの精度で作られているわけでもないため、微妙に変化する。

鋭い角度でも、簡単に撃破出来るオリンピッククラスの名手と言えど、ミスが起きる可能性があるのは、正面に飛行した時だった。

続いて公一が挙銃する。

「おっ!」

かけ声と共にクレーは左方向45度に飛んだ。

初矢、二ノ矢、しかしクレーは大きくカーブして落下した。

失敗したと心でつぶやいた公一は、ちらっと麗香の顔色を窺った。

「行っちゃったよ。」

公一の真似をするように、麗香はいたずらっ子の様に含み笑いを浮かべた。

時間はあっと言う間に流れ過ぎ、日も高くなるころには休憩を加えて、ちょうど4ラウンドを消化した。

ウェイティング・サークルで休憩を取っているとき、小型のクーラー・ボックスから、南アフリカ製アップルタイザーのグリーンの小瓶を取り出した麗香が、皆に勧めた。

三人は礼を言って、それを受け取った。

シューティンググラスを外した麗香が、爽やかな表情でアップル・タイザーを口に運んだ。

まるで、ハリウッド映画のワンシーンのようで、特に若い高城は、その雰囲気に、あからさまに興奮していた。

「これから日本エアロビクス・センターに行く予定なのよ。

よろしければ、御一緒しない?

人数が変更になったって、ここで連絡しておくし、別荘があるから、ひとまずそこへ行って、ランチにしましょう。」

麗香の誘いに、三人は顔を見合わせるとすぐにサムアップしてOKのゼスチャーをして見せた。

「良かった。

それじゃあ、メニューは任せてね。」

麗香は、にっこりと笑った。

第三章(接近)

3.1(日本エアロビクス・センター)

千葉県道14号にある、通称ねずみ坂と呼ばれる峠道を茂原市へ向かい、県道128号へ曲がると、日本エアロビクス・センターへの分岐点があった。

そこは、現代技術の粋を集めた総合スポーツ施設だった。

自然豊かなこの場所には、大型の室内外プールをはじめ、最新のトレーニング・マシンを完備するスボーツジム、そしてアスレチックジム、大型ホテルが備わっている。

 この近代システムを使おうと、シーズンオフにはプロのスポーツチームも数多く利用していた。

クレー射撃を楽しんだ4人が、ここに到着したのは昼下がりだった。

 施設内を道なりに進んでいくと、道路はいくつも枝分かれするが、立て看板にアルファベットと数字で、行く手が印されていた。

 麗香は、迷う事なく一本の道を進むと、程なくして木漏れ日の中に大型のログ・ハウスが見えて来た。

平屋建てだが、とても個人の持ち物とは思えない大きさだった。

高床に組まれたハウス前方には広いスペースのデッキが設けられ、隣に大型ガレージがつながっていた。

麗香は扉を開けると皆を招いた。

 彼女はリビング・ルームの奥にあるクローゼットを開いた。

その中に、もう一つ堅固な鋼鉄製のガンロッカーがあった。

「銃はここに入れてね。

オートロックだから、ドアを閉めたら開かないわよ。

私、ちょっと着替えて来ます。」

彼女が、その扉を開けた。

公一たちは、銃を収納すると、デッキにある樫ノ木のテーブル・セットに腰掛けた。

二人はジャケットを脱いで、背もたれに引っ掛けた。

広く作られていて開放感があるし、何より木々に囲まれているため、森林浴が心地いい。

「ねぇ、麗香さん。

君のような細い腕でよくテスタドライブできるよね。」

 着替えが済んだ麗香に香川秀彦が尋ねた。

「あら?

わたくし、アメリカに留学中、ウインチェスターマグナムをよく撃っていたのよ。」

彼女が腕を撫でながら、そう答えた。

 「そりゃ、失礼しました。」

 香川は姿勢を直すと、頭を下げて見せた。

「なんてね。

実は、私の車、パワーステアリングにしてあるのよ。

 そうでなければ、ミッドシップとはいえ、あのサイズのタイヤを、ちゃんとコントロールできないわ。」

 麗香はペロッと舌を出してはにかんだ。

 「納得したよ。」

 香川は胸のつかえが下りたという表情をした。

しばらく雑談をしていると、2台のバンがやって来て、バーベキューグリルを降ろした。

アメリカ製ウェーバー社の、火力の強そうなガスバーナータイプだった。

親しげに彼女と挨拶を交わすと、新鮮そうな野菜と、桐の箱に入れられた大量の牛肉をテーブルの上に置いて、帰って行った。

甘みの少ない肉にはワインで下ごしらえをすると、旨味が増すが、ビールを使うことによって非常に食感を上げる場合もある。

だが、この肉には何も必要ないような高級感が漂っていた。

「バーベキューランチでいい?

この少し先に、お肉の専門店があるので、射撃場にいた時、連絡を入れておいたの。

年に数回、お店のスタッフと、レクリエーションで、ここに来ると、いつも、こうして、わざわざ運んでくれるのよ。」

 そう言って笑う麗香の言葉に皆、満足そうに頷いた。

麗香は早速火を起こすと、キッチンへ野菜を持って、食べやすいように下ごしらえを始めた。

公一たちは、各種のスパイス、そして食器を運んで来て、テーブルに置いた。

藍色が特徴的な、ドイツ、マイセン地方のマイスターが造り上げた食器の芸術品、所謂マイセン食器だった。

 グルメの間では古くから珍重されてきたそれは、精度、気品、美しさ、どれを取っても世界最高と言われているだけのことはある。

 デザインの根底には日本との関わりも大きく、特にその色彩などは古伊万里が元になっていた。

 公一はそれをすぐ理解すると食器のさわり心地を楽しんだ。

 そして今度はくるりと裏側をながめた。

 「何ですか?」

 不思議そうに尋ねてきた高城に、公一はその食器について説明した。

「皿、割ったら弁償もんだな。」

香川と高城は、すっかりビビッてしまった。

「代わりはあるんだから、気を遣わないでよ。」

麗香は苦笑いを浮かべて、つまらなそうに言った。

「湘南の薔薇って、料理もするんだな?」

香川がキッチンの方を見て、そう言った。

「葉山で、レストランを経営してるから、料理は好きなんじゃないかな?」

公一もそちらを向いて返事した。

「へぇ・・・

なんていう、名前なの?」

香川が気軽に尋ねた。

「ラ・セーヌ。」

「!!!!!」

公一の言葉に二人は大げさに驚いた。

「レストランなんてもんじゃないじゃないか!!

あそこは、各界のお偉方とかしか使わないところだぞ!!」

香川が公一の顔を見た。

「だけど、レストランには変わりないだろう?」

「ヤス(靖国公一)、食べたことあるのか?!」

「最初に出会った時、そこで待ち合わせしたからね。

料理は、美味かったよ。」

「当たり前だろう!!

あのミシュランが、例外として、アジアで初めて、三つ星を付けたのに、簡単に袖にした上、絶対取材拒否だし、一般人は入る事も出来ないから、謎だらけみたいだけど、そのおかげで、世界級の著名人が、わざわざ食いに訪れるって所だろ?!!」

「香川、詳しいな?」

公一がちょっと驚いた。

「取引先から、聞いたんだよ。

一度は行って見たい場所だって。」

「なるほどね。」

公一は納得したように、頷いた。

香川秀彦は、貴金属を生業にしていて、ダイヤモンドの鑑定士の資格も持っていた。

しかも、あのデビアス社からお墨付きをもらったほどの腕を持っていたので、そんな付き合いもあったのだろうと思った。

「建物も全部ヨーロッパの城と同じ素材で仕上げられてて、内装も、全部、特注品だとか・・・

ヤスは建物に詳しいから、その凄いところ全部分かったんじゃないか?」

「まあね。」

公一はゆっくり頷いた。

「全部驚いたけど、一番驚いたのは、それを当たり前に喋るヤスだ。」

 香川は椅子にそっくり返って、天を仰いだ。

「お待たせ。」

麗香は大きなボールに、野菜をたくさん乗せて現れた。

まるで、ブーケのような盛り付けに、香川と高城は、靖国公一の言葉を裏付けるかのような、彼女のセンスの良さを実感した。

「最初に焼くのは私に任せて。」

麗香はそう言うと、高級そうな肉を焼き始めた。

絶妙の火加減で焼かれた後、さっと取り上げると、一枚の皿の上で器用に切り分け、それを、それぞれの皿に、盛り付けると、途端に高級レストランのような雰囲気になった。

「うんっ、美味いや。

良い肉みたいだね?」

公一の言葉に、麗香が珍しく嬉しそうに笑うと

「お口に合って良かったわ。」

と答えた。

野菜も焼き始めた麗香に、公一が

「御門さんは、職業柄、調理して振る舞うのが、楽しいんだろうけど、今日は、みんな、それぞれが焼いて、食べない?

御門さんのように上手くはいかないと思うけど、せっかく集まってるんだから、会話をしながら、ランチしようよ。」

と言った。

「ヤスの言う通り、俺たちは御門さんと初めて会ったんだし、趣味も合いそうだし、そうしようぜ。」

香川が、そう付け加えると、高城は楽しそうに頷いた。

「分かったわ。

それじゃ、そうしましょう。」

麗香は楽しそうな笑顔を見せた。

山間の少しひんやりした空気と、暖かい日差しが絶妙なバランスをみせ、とてもすがすがしいランチ・タイムとなった。

「とっても仲がいいようだけど、どういうグループなの?」

麗香が公一に質問した。

「香川とは幼馴染だよ。

中学の同級生で、ずっと付き合ってる。

高城くんは、五つ年下だけど、成人になってから、仲良しになったんだ。

俺も、以前はオートバイに乗っていて、みんなで、よく走ってたんだ。

俺の大切な親友だよ。」

「そうだったの。

それにしても、凄いの着てらっしゃるわよね。

プロテクターだらけだし、見るからに重そうじゃない?」

麗香は今度、香川に質問した。

「持ってみるか?」

香川が麗香にジャケットを渡した。

「何、この重さ?!!」

何気なく受け取った麗香はその重さに驚いた。

「牛革だけど、普通の倍くらいの厚みがあるかね。

だけど、いったん着ちゃえばなんて事ないよ。」

「なんて事なくないわよ!

こんな重くて、よく、動けるわね。」

麗香が感心した。

「慣れだよ。」

香川はにっこり笑った。

「ストリートファイターには、こういう格好が似合うんだよ。

二人ほど、バイクを手足のように扱える奴はいないよ。」

公一がそう言った。

「そういえば、こう言うジャケット着てる人、たまに街で見かけるわね。

でも、お二人ほど似合ってる人は見た事ないわ。

靖国さんも体格が良いけど、お二人も相当だもんね。」

麗香はしげしげと二人を見た。

「それは、どうも。」

香川が軽く頭を下げた。

「御門さんは湘南だから、ガルフ・ウォリアって名前聞いたことあるかな?」

公一が麗香の顔を見た。

「聞いたことあるわ。

京葉、京浜地区の湾岸エリアでは有名な走り屋よね。」

「目の前にいるよ。

香川の事だから。」

「ええっ?!!

そうだったの。」

麗香は大きな瞳をさらに開けて驚いた。

「高城は、掛川のロードボンバーって言われてる。」

「それも、知ってるわ。

高城さんだったんだ。」

公一の言葉に、麗香が頷いた。

「そうだったんです。」

高城は頭をポリポリ掻いて見せた。

「それじゃ、高城さんは静岡の方なのね?」

「違います。」

「えっ?!」

「どうしてそう呼ばれるかは、秘密です。」

高城はそう言うと、人差し指を唇に持っていった。

その行為に、靖国公一と香川秀彦は突然大笑いした。

「何?」

麗香は困惑した瞳をした。

それからまたランチが続いたが、公一は最初に会った印象とガラッと変わった麗香の態度を不思議に思っていた。

麗香は、終始笑顔で、二人にオートバイに関する事を質問したりしていた。

その笑顔は、公一が初めて見る表情だった。

「靖国さん以外のお二人はオートバイしかご興味ないの?」

麗香が誰ともなしに、そう質問した。

「香川はポルシェターボのフラットノーズと、ベンツのW201・2.3-16を持ってる。

当然、どっちもそのままじゃないよ。

高城は、トヨタのカローラ・レビン・AE86を持ってる。」

公一が返事した。

「それじゃあ、車も楽しんでいらっしゃるのね?」

「どっちかといえば、バイクの方が楽しいんだ。

自信もあるしね。」

香川が笑った。

「失礼でなければお聞きするけど、皆さん、ご結婚されてるの?」

「俺と高城はね。

子供もいる。」

再び、香川が答えた。

「靖国さんは独身なのね?」

麗香が、じっと公一を見た。

「まあね。」

公一は苦手に話になったぞと言いたげに、そう答えた。

麗香は、それ以上聞くことはしないで

「時間があれば、食事の後、少し泳がない?」

 と無邪気な笑顔を見せた。

「OKと言いたい処だが、水着がないぜ。」

バトル・スーツの、ごつい金属バックルをゆるめながら、香川が言った。

「大丈夫、スポーツ店あるから。」

「気が利いてるじゃん。」

高城和雅が、おどけながら答えた。

こうして話すうち、公道で恐れられている人物達とはとても思えない、気さくな人達だという事が分かった麗香だった。

ランチの後始末をした後、4人は、タクシーでスポーツ施設へ移動した。

麗香の言った通り、スポーツ用品を販売しているコーナーがあったので、そこで、買い物を済ませると、お揃いのスウェット・スーツを着た彼らがプール・サイドに現れた。

「こっちよ。」

少し早めにプールに到着していた麗香がスタッキング・チェアーに腰掛けていた。

周りの客の視線を一気に集めていた彼女から、その視線は、そのまま彼らに移動した。

特に男性客のそれは、羨望と嫉妬の入り交じった複雑なものだった。

公一は麗香のとなりのチェアーで上着を脱いだ。

 見事なまでに発達した大胸筋と広背筋の為、1mは軽く越えている頑丈な胸板が現れた。

それは、東洋人の多くように、幅広くとも、薄っぺらな印象とは違い、充分すぎるほどの厚みを持っていた。

発達した僧帽筋、そして三角筋、上腕筋は、痩せた男性の太ももより、はるかに太かった。

よく見ると、体のあちこちには無数の古傷が刻み込まれている事から、まるで、死線をくぐり抜けたグラディエーターの様な肉体だった。 

それだけではない。

 香川秀彦は鍛え抜かれたヘビー級ボクサーの様な、高城和雅も、まるで全身がバネの塊の様に、贅肉をそぎ落とした素晴らしい肢体が現れると、途端に顔色を変えた男性客は静々と視線を落とした。

女性客の中には熱い視線を送って来る者もいる。

「ふーん、うちのボディガードが敵わない訳だ。」

麗香は、しげしげと公一を見上げながらそう答えた。

「何?

そういえば、あの人には悪いことしちゃったな。

俺も、おとな気なかったって反省してるんだ。

あの時の彼は、だいぶ、油断してたんじゃないかな?

本気で来られていたら、俺なんかとても敵わなかったはずさ。」

公一がそう言って笑った。

「何かあったの?」

香川が怪訝そうな顔をしたので、ラ・セーヌで起きた事を話した。

「頑固者だし、こいつには、たまにそういうところがあるからなぁ・・・」

香川はそう答えて、ニヤリとした。

「ちょっと、止めてくれよ。

もう終わった話なんだからさ。」

公一は困った顔をした。

「彼も反省してたわよ。

もっと、ちゃんと話し合うべきだったって。

あなたに手首を掴まれた時、今まで感じたことのない、怖さを感じたって正直に話してくれたわ。

人とは思えない、猛獣のような力だったって。」

「まいったな・・・」

公一は頭を掻いて見せた。

その仕草を愉快そうに眺めてた麗香は、すっと立ち上がった。

ダークブルーのワンピースの胸元に、エルメスの特徴的なロゴが、遠慮がちに同系色で入れられていた。

この上なくシンプルだが、なかなかエスプリが効いたデザインは、さすがに生地をよく知り尽くしたメーカーの品だと言えた。

だがこれも、日本人の平均的体系を全く無視したプロポーションの彼女が着ているからこそ、映えるのかもしれない。

しかも、欧米人の多くに見られる大柄ではない、引き締まった体型だった。

きっと、プロのモデルですら、彼女の前ではただの凡人になってしまうに違いない。

これでは見るなと言うほうが残酷だろう。

「すっごいな・・・

まったく・・・」

高城和雅は、好色な笑顔を浮かべるのを必死にこらえた。

「泳ごうよ。」

香川秀彦が麗香の手を取ってプールに誘った。

彼女はその言葉に軽く頷くと、靖国公一の方を見た。

「俺は少し食後の休憩。」

そう言うと、公一はスタッキング・チェアーにゆったりと腰かけた。

「それじゃ、行きましょ。」

麗香と残りの二人はプールに入った。

懲りずに男性客は再び麗香に視線を向けようとするのだが、一緒にいる男たちの体型があまりにも無気味で顔を向けられないでいる。

 最初、麗香とふざけていた二人だったが、そのうち競泳を始めた。

大きなストロークでぐんぐんスピードを乗せる彼らに、周りの客は圧倒された。

 抜きつ抜かれつのデッド・ヒートを演じる二人の、その猛烈なスピードに、そこだけが、まるでビデオテープのピクチャーサーチを見ている様だった。

 プールの壁にもたれて声援を送っていた彼女だったが、幾度もターンを繰り返す彼らに些か呆れてきた。

「優しい目をしていらしたのね。」

 麗香が公一を振り返って、そう言った。

「・・・」

「今まで、お会いするときはサングラスをしてらっしゃったでしょ?

だから、もっと怖い顔をしているんじゃないかしらって、想像してたわ。」

麗香は瞼を指で吊り上げながら笑った。

唇を歪めて苦笑いを浮かべた公一が、ようやくゆっくりと立ち上がった。

そばに座っていた数人の女性客が、その筋肉美に思わず視線を止めた。

そちらに視線を向けると、横顔に陽の光を浴びたそのエキゾチックな表情に、彼女達は少し恥ずかしげにうつむいた。

「なに、やってんのよ。」

麗香は、珍しくジェラシーを感じたのか、手のひらにすくった水を公一にひっかけた。

 プールではまだ競泳が続いていた。

 彼らがちょうどこちらのターンになったとき、公一もついに飛び込んだ。

やはり大きなストロークでぐんぐんスピードを乗せる。

 次第に体全体の緊張がほぐれてきた。

 さぁ、これからというときに不意に足首をつかまれた。

その足を軸に急反転して顔を上げると

「上がろうぜ。

彼女がジムの方へ行きたいってさ。」

と声をかけてきたのは香川だった。

「OK。」

公一はそう答えると、プールの縁に両手を置き、両足で底面を蹴って一気に体を持ち上げた。

 上半身の筋肉が緊張する。

 そのまま下半身を振り上げると腕のプッシュ・アップだけで、プールサイドに上がった。

続いて後の二人も同じ動作を繰り返すと、彼らが去った後、体に自信のありそうな青年がまねをしようとして、不樣に転落した。

シャワーを浴びて、スウェット・スーツに着替えた彼らがトレーニング・ルームに入った。

それは、重さを感じる上質な綿素材で、VANのバック・プリントの入っていた。

VANは1958年に日本上陸して爆発的ヒットしたアメリカ東部8大学のファッション・スタイルである、アイビーをベースにした国内メーカーである。

何度も経営不振になって、市場から消えても、また蘇ってくるほど、根強い人気があったし、三人とも、このブランドは、ティーンエイジャーの頃から、お気に入りだった。

入念にウォーミング・アップをすると、彼らは、上着を脱いで、半袖のTシャツ姿になった。

高城和雅は、ベンチプレス台へ行くと、ウエイトプレートをバーにセットした。

両端に20kgを2枚ずつ付ける。

バーの重量は20kgだから、これで合計100kgになる。

ラックの下に滑り込むと、ゆっくりとバーベルを持ち上げ、胸元に降ろした。

高城は、無表情のまま、ごく普通に、運動を開始した。

とても、100キロあるとは思えない、軽々しさだが、上腕二頭筋は非常識な程膨れていた。

何度か繰り返すうち、大胸筋や、上腕三頭筋も、はちきれんばかりに膨れ上がった。

 そんな調子で、ゆっくり確実な動作でリフトを繰り返していた。

今は普通のサラリーマンをしている高城だが、オリンピック候補とまで言われたウェイト・リフティングの選手だった。

だが、あまり自由にさせてくれない全日本のやり方に反感を持ち、以来一切の選手権試合を自ら放棄したのだった。

ノーチラス製のバタフライ・マシンに香川が座った。

バランスと呼ばれる鉄製の重りは5kgずつに分けられていて、各々左右に可動するストッパーがついていた。

 左に動かせばそこから下が切り放されるのだ。

通常自分で調節するのだが彼には全く関係無いようだ。

 総てのバランスをつけたまま、小気味良いペースで運動を開始した。

 およそ尋常な筋力とは思われないその行為に、まわりの客は息をのんだ。

 大胸筋は勿論、踏ん張るため大腿四頭筋までが躍動した。

靖国公一は、高城と代わってベンチプレスの台に寝転んだ。

 ウエイトはそのままで、ごく普通な感じに運動を開始した。

 鍛え抜かれた上半身と違い、他の二人に比べると下半身の筋肉がついていないのが分かる。

 それは彼が以前、オートバイで、大きな事故を起こし、死線をさまよった時の、忘れ形見のようなものだった。

診断書のページをはみ出すほど書かれた怪我ではあったが、奇跡的に生還した後、必死のリハビリを行った結果、それまでの運動選手腿と言われるまでの、下半身の太さを失った。

だが、それをリカバーするため、他の二人よりも増して上半身の大袈裟な筋肉を持つこととなったのかもしれない。

 そこに居合わせた者達は、そんな彼らをただ呆然と見詰めた。

「タフね。

それにあなた達って、人間なの。」

麗香が腕組みをしながら呆れ顔で公一を見下ろした。

「はははっ

君は何かやらないのか?」

猛獣そのもののように発達した筋肉を躍動させながら、公一が笑った。

「やる気無くしたわ。

いつまで、続けるの?」

 なかなか相手にしてもらえず、いらいらしてきた様子の麗香が、だだっ子の様に唇を斜めに吊り上げた。

「もう止めるよ。」

にこやかにほほ笑むと公一は立ち上がった。

 そこへ、二人も集まって来た。

 彼らのTシャツは汗で透けてしまっている。

パンプアップして袖からはみ出した腕がシャツを破らんとする程緊張しているが、別に力そのものを失っている訳ではない。

 その後、4人は野外にあるアスレチックコースを楽しんだ。

麗香は丸太越えやロープにぶら下がると、無邪気な子供のような大声を出して、ようやく楽しそうに笑っていた。

三人は、一見細くは見えても、こうして、普通に、アスレチックを楽しんでいる事こそ、優れた運動神経と、筋力が備わっている証明だと理解していた。

パワーステアリングにしてあると言ってはいたが、ゆうに30センチを超える幅広タイヤをコントロールし、チューンナップされたエンジンのため、強化されたクラッチを踏み続けていられる理由も納得出来た。

夕刻になって、ホテルのレストランに移動した。

特別なドレスコードはなかったが、ホテル側が気を利かせたらしく、個室を準備してくれていた。

三人は、改めて御門家とは一体どんな存在なのかと思い始めたが、別にそれを知る必要もないと、思い直した。

スポーツ後の心地よい疲労には、よく冷えたビールがピッタリとくる。

 特にアルコール度数を落としたバドワイザーは、渇ききった喉に、適度な刺激と潤いを与えてくれた。

 だいぶリラックスしたディナー・タイムの頃には、夜のとばりが降りていた。

料理は麗香に任せたので、コースメニューになった。

サフラン入りのコンソメスープから始まり、次いでフランベした鴨肉、車エビのムニエル、仕上げのデザートはメレンゲを使ったお菓子にカラメル・ソース掛けしたものが出た。

食事が済むと、ホテルの送迎バスで麗香のログハウスへ送ってもらった。

そして、吹き抜けになった広いリビング・ルームで、本格的に飲もうという事になった。

 杢板張の20坪程のスペースは、梁が露わになっているため、天井が高く、そこには、巨大な流木を複雑に組み合わせ、ライトを嵌め込んだ、野趣溢れる雰囲気の照明が下がっていた。

 中央には、ペンドルトンなども採用している、ネイティブ・アメリカンの文様が特徴的なウールカーペットが敷かれ、柔らかい素材をしたファブリックのソファー・セットが置かれてあった。

 麗香はフランス、ブルゴーニュ地方特産のボージョレー・ワインの白で喉を潤し、公一はバーボン・ウィスキーのワイルド・ターキーをオン・ザ・ロックスにして食後酒にしていた。

アメリカ、ケンタッキー州特産のウィスキーはトウモロコシを原料として一般にバーボンと呼ばれ、イングランド・スコッチ・ウィスキーなどと比べると甘目の口当たりや独特の匂いなどの癖がある。

その中でもこのワイルド・ターキーはそのどちらも強めで、アルコール度は55%もあるのだが、飲み付けてくると、その味と、こくは格別の物となる。

 ジャックダニエルもバーボンで間違いないが、それはテネシーウィスキーであり、あくまでもバーボンはケンタッキーウィスキーだと拘りたいところだ。

他の二人は相変わらずビールを水のように飲んでいた。

麗香はバカラのワイングラスの中身を飲み干すと

「今日はもう遅いし、お部屋も空いてるから、良かったら泊まっていかない?」

と言った。

「やった、もう少し飲めるぞ。」

高城和雅はもう既に出来上がっている様だった。

それから、4人は大いに盛り上がった。

夜も更けて来て、完璧に出来上がってしまった香川と高城は眠さを訴えたため、そこで、おひらきにする事にした。

「それじゃ、お部屋へご案内するわ。」

麗香はそう言って、それぞれエスコートした。

彼女は中央に設けられた廊下を通り、それらの部屋の更に後ろにあるセカンド・リビング・ルームのちょうど彼らと真反対の部屋へ入った。

3.2(接近)

部屋は8畳程の広さがあり、独立したバスルームとトイレ室が備わっていた。

公一は、木製の大型ベッドの脇にある窓際の小さなテーブル・セットに腰掛けて、もう少し飲んでおけば良かったと後悔していた。

木を組んだだけに見えるログ・ハウスだったが、遮音がしっかりしている屋内では、足音さえも響かない。

きっと見えない部分にかなりの工夫がされているのであろうが、自宅は幹線道路沿いのため、普段から騒々しい場所に慣れている公一には、静かすぎて、かえって神経が高ぶってしまったようだ。

変な耳鳴りまでしてくるのを感じていた。

「まいったな。」

 そうつぶやくと、公一は窓の外の月明かりに浮かぶ景色を眺めた。

そのとき、誰かがドアをノックした。

「私です。

まだ起きてますか?」

 彼女だった。

「ああ、寝付けなく、外を眺めてるんだ。」

 「ちょっといい?」

 「どうぞ。」

 公一はドアを開けた。

麗香は、部屋に入ると、公一の腰掛けていた席に座った。

電気を付けようとすると

「このままで良いわ。

月明かりが入ってくるし。」

と言って微笑んだ。

薄明かりの中、宝石の様な瞳が輝いた。

「こんな時間にどうしたんだい?」

公一は首を少し傾けながら彼女の顔を静かに見詰めた。

「今日は楽しかったわ。」

 彼女はそう言うと、にっこりほほ笑んだ。

「こっちこそさ。

君に随分迷惑を掛けちゃったよね。」

公一も感謝の気持ちを込めて笑顔を作って見せた。

「どうして?

わたくしから誘ったんじゃない。

こんなに楽しい思いをしたのは、初めてかも知れないわ。」

麗香は公一を見た。

「初めてとはおおげさだね?」

「本当の事ですもの・・・

一つ聞いても良いかしら?」

 「なに?」

「ディナーの時、どこか上の空のようだったけれど、何を考えてたの?」

 「そうかな?」

 公一はそう答えると、少し視線を外した。

「よければ話して頂けないかしら?」

「そうだね。

君は最初会った時に比べると随分変わったなと思ってたかな?」

 公一が言葉を選ぶようにそう答えた。

「わたくしが?

どんなふうに?」

 麗香はちょっと驚いて見せた。

「御門さんって、本当は随分素直な人だったんだなって。

よく聞く噂とは全然違うんだって事が分かったよ。」

 公一は彼女をまっすぐ見てそう答えた。

「ねえ、靖国さん。

良かったら、これからは、名前で呼んで下さらない。」

麗香はエキゾチックな瞳を向けた。

「えっ・・・?」

公一はその言葉にどきっとした。

「その方が親近感持てるでしょ?」

「それなら良いよ。」

「じゃあ、私も靖国さんを名前でお呼びして良い?」

「かまわないよ・・・」

「一つ聞いて良いかな。」

公一が、突然へりくだった麗香の、その瞳を見た。

「何かしら?」

「六本木で会った時、麗香さんは、どうしてあんな奴らにむきになってたんだい?

 君にとっては、どうでもいい連中だろ。

 気高き湘南のローザの相手ではなかったはずだ。」

その言葉に少し考えた麗香は

「コブラをばかにしていたから・・・

頭に来たのよね。」

と答えた。

 その言葉に何かを感じた公一は

 「何で?」

 と、更に質問してみた。

麗香の目が落ち着かなくなってきたが、急に愁いの在る笑みをたたえると

「どうだっていいじゃないの。

それより、公一さん、今、嘘付いたでしょ?」

 と言った。

 「そんなことないよ。」

 公一はすぐに否定した。

「嘘よ!」

「嘘じゃないさ。」

「あんな寂しそうな顔を見たの初めてだったわ。」

「そんな顔、してたかな?」

「ごまかしてる。」

 麗香のとても真剣な表情に、公一は戸惑った。

 だから、そっと視線を外した。

「ちゃんと私を見て。」

麗香がすぐにそう言った。

「なにを、そんなにむきになってるんだい?

麗香さんらしく無いね。」

 公一はその言葉を無視するかのように窓を見た。

 「私はあなたのこと全然知らないわ。」

「良いじゃないか。

こうして、もう友達なんだし・・・」

そう言いかけて、ふっと視線を戻した公一は、彼女の表情が言い様の無いものに変わっているのを感じた。

「麗香さん?」

得体の知れない不安感を拭うように公一は彼女を呼んだ。

そして

「・・・どうしたんだよ、本当に。

君こそ今日は変だぜ。

だいぶ酔っぱらってるだろ?」

と言った。

「気になったのよ、食事の時の、あなたの目が。」

 訴えるような瞳だった。

公一は信じられなかった。

 これが、あの湘南のローザなのか?

東名を時速300km以上の猛スピードで疾走する、あの気丈さは影を潜め、か弱い少女のような感じがした。

「ただ、つまらない昔のことを思い出しただけだよ。」

その雰囲気にたまらず口が開いた。

「つまらない?」

「さっきのディナーさ。

以前、俺が唯一、心の底から愛した人と、最初で・・・ 

そう、最初で最後になってしまった食事の時のメニューによく似ていたんだ。」

公一は重い口を開くと虚空のどこか遠くを見つめた。

 「あっ・・・」

 麗香は聞いてはならぬことだったという風に、公一から視線をそらすと、唇を薄く噛んだ。

「別に深い意味はないんだ。

気にさわったのなら謝るよ。」

 公一は彼女の気持ちを察してか、気づかうような優しい声で言った。

「御免なさい。

私・・・」

 麗香はうつむいたまま体を小さくさせた。

「気にするなよ。

もうずいぶんと昔のことなんだ。」

 彼は優しい表情を作り続けた。

「・・・」

公一は無言でうつむく麗香を、優しい瞳で見つめているうち、今までにない、愛しさを感じてくるのを感じた。

この人は、自身の持っている卓越した美しさのため、そればかりが目立ってしまい、その奥に有るこんなにも純粋な部分を隠してしまっているのだなと思った。

「いつか言ったよね、俺って本当に変わってるんだ。

バイクや車が総てだったんだ。

 仕事をして、総ての金をつぎ込んで、あるとき気が付いたら機械しか信じられない人間になっていた。

だから、人の気持ちを理解出来ずにいたんだ。

その人がいなくなる瞬間まで・・・・・・」

「誰でも一つのことに熱中する時ってあるわよ。」

 ようやく麗香が顔を上げた。

「熱中・・・か。

俺の場合は、もっとのめり込んでいた気がしてるよ。

いつでも結果が見えるまでは、諦めのわるい男だったからね・・・

 それが俺の生き様だった。

たとえば山を登れば、とにかく、てっぺんを見なければ気が済まないから、何があっても進んじまう。

途中で止めておくことが本当は正解だったかもしれないとしても・・・

実際、ハイキングに出かけて、房総の山で遭難しかけちゃったんだ。

ただのハイキングだったのに、道に迷って、ひたすら藪を彷徨った。

日が暮れてきて、どうしようって絶望感で、頭がいっぱいになり始めた時、やっと砂利道に出て、人が作った道だって思ったら、心からほっとした事があったんだ。

がむしゃらに前にしか進む事の出来ない人間さ。

そんな風だったから、きっと知らぬ間に人を傷付けていた事もあったのかもしれないんだ。

自分では、それを理解する事ができなかった。」

公一は苦笑いを浮かべた。

「私、触れてはいけない、公一さんの傷に触れてしまったみたいね。」

 麗香が優しい瞳を公一に向けてそう言った。

「俺は・・・・・

結局、彼女の幻を愛してしまったのかも知れない。

 いつまでもそこに在ることが当然なんだと、思いこんでいたんだ。

 だから、俺はいつも前ばかり向いて突っ走っていれば良いんだって思っていた。

 かけがえのないものを失った後は、何も残ってないんだっていう現実を痛いくらいに感じされたよ。

 どんなに時が流れても、未だに心を締め付ける。

 恐ろしいほどの幻なんだ。」

公一はそう続けて唇を歪めた。

「幻なんかに惑わされてはいけないわ。」

 窓から差し込む月明かりに透明感のある瞳を輝かせた麗香がほほ笑んだ。

 「そうだね。」

「今夜で忘れちゃいなさいよ。」

「えっ・・・?」

「公一さんのチャンスかもよ?」

 彼女の様子に公一はどうして良いか分からなかった。

 麗香は優しい表情を崩すことなく公一のそばに寄った。

「待って。

それから先の話は今度にしよう。

 君の瞳・・・・

 なんだか魔法にかかったみたいにベラベラとしゃべり過ぎた。」

 この世のものとは思えない美しい女性にぴたりと体を寄せられると、ほのかに香る甘い香りと、体温に公一は喜びと不安とで更に焦りだした。

 「いいかげんに素直に生きなさいよ。」

 随分と年下のくせに、麗香はまるでこちらの手の内を知り尽くしている母親の様な穏やかな表情を浮かべた。

「どういうことだよ。」

公一は心を見透かされたような麗香の言葉に、少し馬鹿にされた気になったが、自分を崩さないように取り繕おうとしていた。

 「幻は愛することは出来ても、あなたを愛してはくれないのよ。」

「君は今日、本当におかしいよ。

大体、湘南のローザが・・・」

 言いかけた公一の唇は、麗香の唇によってふさがれた。

 ちょっと酒臭いが、洗い髪の上質なシャンプーの香りに包まれた。

 だが、突然、瞳を開いた麗香は

「ごめんなさい。

わたくし、本当に、そうとう酔っているようだわ。」

 と言って、素早く体を離した。

 「え?」

 今度は公一が驚いた。

「ごめんなさい・・・・」

 麗香はさっと立ち上がると

「おやすみなさい、公一さん。

突然、ごめんなさい。」

 彼女は、何度も、そう謝りながら部屋を出ていった。

 公一は突然の成り行きに、頭が混乱していた。

  3.3(ブレック・ファースト)

 木製の格子窓から差し込む強烈な朝日に目を細めながら、靖国公一はゆっくり体を起こした。

まだ頭が混乱している。

 寝ぼけているせいもあるかもしれないが、昨晩有った事は、旨い酒と月明かりに酔って見た幻覚だったんじゃないだろうかと、ぼんやり考えていた。

公一は上体を大きく後ろに反らせて背伸びをした後、リビングに出た。

次いで、格子硝子の嵌め込まれたマホガニーのクラッシック・ドアを開けて、三方がガラス窓になった、小ぢんまりとしているが、開放感のあるダイニング・ルームに入った。

「おはよう。」

椅子に腰掛けていた香川がそう言った。

「おはよう。

他の人は?」

公一も椅子に腰掛けた。

「彼女はキッチン。

 朝食を作ってくれてる。  

 もう一人は例によって、まだ起きない。」

香川は、昨日の酒が残っているのか、なんとなく、まだけだるそうに答えた。

「やっぱり。」

公一はいつもの事と、苦笑いした。

高城和雅は、酒を飲ませて寝かせると、朝は死んでも起きないと仲間内で評判だったからだ。

キッチンから、麗香が、品良く盛り付けられたグリーンサラダの盛られたガラスのボウルを持って現れた。

レッド・ウッド製シャモア・クロスのネルシャツの上に、イングランド・コーギーのカシミア・Vネック・カーディガンを羽織っていた。

パステル・トーンのエプロンをしていたが、なかなか似合っていた。

 二人の前方にボウルを置くと

「おはよう、公一さん。」

と声をかけた。

「えっ?」

公一は少しドキッとした。

「おはようって言ったの。」

麗香は透き通るように爽やかな笑顔を向けた。

「ああっ、おはよう。」

公一はまた少し混乱した。

何故ならば、昨晩の事など全く覚えてないような、普通の態度を不思議に思ったからだった。

「高城さんは、まだ寝てるのかしら?」

誰ともなく麗香が尋ねた。

「あいつはちょっとやそっとじゃ起きないよ。」

いつもの事だと言いたげに香川が答えた。

「昨日、ずいぶん飲んでいらしたからかしら?」

「いつもの事さ。

放っとくと、昼になっても起きないよ。」

香川が苦笑いした。

「せっかく準備したのに・・・

私、ちょっと起こしてくる。」

麗香は子供の様な膨れっ面を見せてダイニング・ルームを出て行った。

「おいっ、湘南のローザって、あんな所帯じみた女だったのか?」

香川はテーブルに身を乗り出した。

「知らないよ。」

公一は肩を竦めて見せた。

「何か有ったのか?

昨日の夜。」

香川が、更にその身を乗り出した。

「えっ、べつに。

なんで?」

「いや、なんとなく。」

さすが友人の中でも早婚だった彼の目はごまかせなかった?

らしい。

「おあようございます。」

ようやく寝ぼけ眼で高城和雅が登場した。

彼は頭髪が堅いため、朝はまるでパンク・ロッカーだった。

「頭ぐらいセットして来いよ。」

香川秀彦がその髪をつかんで、少し乱暴に振り回した。

「ウァー!

やめてくださいよ。」

高城はフラフラになりながら、抵抗した。

「それじゃあ、ご用意しまーす。」

麗香は楽しそうに笑うと、アールグレーを、それぞれのティーカップに注いだ。

清潔感のあるホワイトをベースにゴールドの縁取りがセンスよく纏められた、美しいマイセンのカップセットだった。

スクランブル・エッグを作ると、バゲットのトーストにデザートはフルーツ・カクテルを手際よく作った。

「こりゃ奇麗だ。

これで、美味けりゃ文句無いけど。」

香川秀彦が茶化した。

「あらっ、私、レストランをやっているのよ。

お料理得意なんだから。

ねっ?」

麗香は、透き通るような笑顔を公一に向けた。

「聞いたよ。

葉山のラ・セーヌを経営してるんだってね?

素晴らしい店だってことは知ってる。

経営と料理は別なんだろうけど、御門さんは、本当にこういうことが好きだって分かるよ。」

香川秀彦が食事を口に運びながら答えた。

「ありがとう。

そう評価してくれたのは、香川さんもお料理好きなんでしょ?」

「美味いものは分かるよ。

スクランブルエッグって簡単な料理だけど、それだけに、混ぜ方から始まって、時間とか、加熱の仕方とか、テクニックがものを言いそうじゃないか?

御門さんのは、丁寧な感じがする。」

「私、ちょっと驚いちゃった。

自由自在にバイクを運転したり、ゼロヨンで敵無しなんて言われているガルフ・ウォリアーって、実は、驚くほど細かなところに気がつくし、料理も詳しいなんて、ギャップが凄すぎるんですもの。」

麗香は瞳を大きくして見せた。

「細かいのは仕事のせいじゃないかな?

こんな、ごっついのに、貴金属屋なんだ。」

公一がそう言った。

「ごっついのは、関係ないじゃないか?」

香川が苦笑いした。

「へぇ・・・」

麗香が興味津々の瞳をした。

「宝石の鑑定士もしてて、デビアスのお墨付きなんだぜ。

ミキモトとか、ティファニーで、デザインアドバイザーしてるし、もし、欲しいものがあったら、香川に相談してみたらいいんじゃない。

幼馴染の俺が太鼓判を押します。」

公一が胸をポンと叩いて見せた。

「ヤスの太鼓判なんかじゃあ、あてにならないだろう。」

香川が笑った。

「そんなことない。

ぜひ今度、ご相談させていただきたいわ。

失礼だけど、宝飾品って、言い値になってしまいそうで、そのものの価値が本当なのかどうかって、信じられなくなっちゃう時があるのよね。

だから、安心してお任せ出来る方がいると、とっても嬉しいもの。」

「確かに、言い値っていうのは間違ってないかな・・・」

「あっ、本当においしい。」

香川が話している途中で、そう返事をした高城和雅にダイニング・ルームは大爆笑となった。

食事が済んで、彼女が片付けをしている間に、三人は荷物を持って、ガレージへ向かった。

公一は、彼女のガンケースとバッグを乗せるため、特徴的なエアインテークの奥にあるボタンを押し、ドアを開けた。

この車はデザインを優先しているため、そういう工夫によって、所謂、一般的に絶対存在するドアヒンジが巧みに隠されていたのだった。

公一は、その大きさからは、とても想像できないくらい軽い事に驚いた。

その独特の匂いから、素材はカーボン・ファイバーのようだった。

車体補強のための高く幅広いサイドシルが比類なき高剛性を雄弁に物語っていた。

ボディーと違って、地肌のままのカーボン模様が美しかった。

これならば、東名を300キロ出していても何の心配もなさそうだ。

ただし、コックピットへ入るには、身軽でないと一苦労だと思った。

 公一は麗香のコックピットは始めて見るので、ちょっとわくわくしたが、インテリアに関しては、それほど、カスタムされてはおらず、むしろノーマルに近かった。

 しかし、通常革張りのダッシュボードやシートが全てカーボンになっていることから、おそらくそこからは見えないすべての素材は半端じゃなく仕上げられてるに違いないと感じた。

 前後にした動かないシートをスライドさせて、彼女の残り香が漂う車内に、クーラー・ボックス、実用性とハイ・センスを両立させたルイヴィトンのスポーツ・バッグ、そして最後にショットガン・ケースを収めた。

オリジナルの車体でも同じだが、ミッドシップレイアウトだというのに、よくこれだけの透き間を作ったものだと、テスタロッサの収納スペースにちょっとびっくりさせられる。

軽いはずのドアなのに、閉める時、重厚な音質でピタリと閉じるのは、さすがよほどのボディー造りの職人が携わったに違いないと思った。

香川秀彦は三挺の銃ケースを、ポルシェ893の助手席に置きながら

「俺達二人、昨日の晩、無理矢理酔っ払った甲斐が有った様じゃないか?」

と言って、にやりと笑った。

「えっ?」

一瞬どきっとした公一が香川の方を見た。

「ヤスを見る彼女の目は、朝から違ってたし、さっき、公一さんって呼んでたよな?

 昨日の夕食の時も、お前の顔を随分気にしていたようだったし・・・・・・・

こうなったらこっちは飲めるだけ飲んじまって、後は知らんぷりして寝ちまったほうが良いと思ってね。

あんな美人とお前が何かしてるなんて、考えたくもなかったから。」

彼は大げさに笑った。

「さすが、パパだけの事はあるんだな。」

公一は感心したようにそう言った。

「そりゃそうさ、高城くんだって薄々感じてたんじゃないかな?

だから俺につきあったんだ。」

そう言いながら高城和雅の方に目線を送った。 

「知らなかったのは当の俺だけだったって訳か。

さすが、ふたりとも既婚者だな。」

「もうちょっと女心をつかめよ。」

香川はVMAXのシートにもたれかかって公一をたしなめた。

「結局やっちゃったんでしょ?」

 好色な笑みを浮かべて高城和雅が口をはさんだ。

「・・・・・」

 無言で視線を外した公一の表情を伺った高城は

「あーっ、やっちゃったんだ!!

良いなぁ・・・!!」

と悔しそうに叫んだ。

 「それが、そうなるような感じだったんだけど、なんだか話の途中から、突然彼女が部屋を出て行っちゃってさ・・・・・」

 公一は、ばつが悪そうにそう答えた。

 「なんか怒らせるような事言ったのか?」

香川が眉を上げた。

「分からないけど、昨日の料理が、たまたま、別れた子と最後にした料理と似てたって、話したんだ。」

「ああ・・・」

香川はその頃のことを思い出したように、そう返事した。

「知らない人と、アメリカに行っちゃった時は、本当に呆然としたっけ。」

公一が苦笑いした。

「そのうち、彼女らしくなく、急に女性らしくなって、これからは麗香って呼んで欲しいとか、昔のことなんだから、もう忘れちゃえとか・・・」

「で、キスでもされたってか?」

香川が顔色を窺った。

「えっ?!」

公一はまるで、見ていたかのような、その話っぷりに、慌てた。

「まあ、昨日の夜は良い雰囲気だったからなぁ。

俺はもうあれで決まりって感じがしたんだけど、

あの娘、まさか処女ってことないよね。」

「しらねぇよ。」

 公一は香川のそのつっけんどんな質問に、ちょっとどきっとした。

 麗香を待って、四人はコテージを後にした。

 雲一つ無い快晴の空の下、VMAX、KZ1000R、そして麗香のフェラーリ・テスタロッサを前に、靖国公一のドライブする漆黒のポルシェは、山間のなだらかに続くワインディング・ロードを、滑るように駆け下りて行った。

3.4(ストリート・ファイター)

千葉市と茂原市を結ぶ太い幹線道路に出るT字路の信号を左折した四台は茂原市内に入った。

のどかな田園風景の中を走って、市街地で信号待ちをしているときだった。

反対車線前方から暴走族と見られる改造バイクが数台走って来るのが見えた。

先頭はおそらく、ヤマハの400ccであろうことがシリンダー・ヘッドの形状で分かる。

二番手と三番手はスズキの400ccの様だ。

どれもが改造を施されて、あまり手入れされていない感じに見えた。

バイク好きなのは理解できなくもないが、意味がちがう。

彼らは何かリズムでもとる様に、けたたましく空ブカシを入れながら赤信号を無視して交差点に突っ込んだ。

その時、運悪く?

小さな姉妹が歩道を小走りに横断してきた。

 反対側の駄菓子屋に向かって一直線な瞳を向けていた。

いけない!

皆がそう思った。

 その直後、先頭車の前輪は妹の小さな手を引いていた、年の頃なら七つぐらいの姉を弾き飛ばした。

つないでいた手を強制的に振りほどかれた妹は前方に倒れ込んだ。 

 もんどりうって回転する姉の体のすぐ脇を、スロットル全開にして逃げ出す先頭車。

 ボサッと走っていた二番手車は、続いて、すぐに妹をも跳ね飛ばした。

 一瞬の出来事に声すら上げることの出来なかった妹は、姉のすぐそばまで飛んで行き、その体は不自然に折れ曲がった。

ヘルメット越しにも分かるような焦りの色を見せた二番手は一目散に走り出した。

最後の男は、一瞬止まろうとした様子だったが、慌てて、その場から走り去った。

サイド・スタンドを立てた香川秀彦と高城和雅が、素早く子供達に駆け寄った。

「生きてる!」

香川はそう叫ぶと、すぐにマシンに戻った。

 ステアリングを右一杯まで切ると、エンジンを高回転域までぶん回し、急激にクラッチをつないだ。

 スーパーチャージャーで武装されたVMAXのリア・タイヤはホイール・スピンし、猛然と白煙を吹き上げた。

 その場で素早いアクセル・ターンを敢行すると、彼は空転したまま蛇行するリア・タイヤを物ともせず、フル・スロットルで暴走族を追跡した。

高城和雅も、その場で同じようにアクセルターンをした。

 フロント・ホイールを高々と上げ、そのステアリングを右腕一本で支えると、公一に左手でサムアップして見せた。

 麗香も左にウィンカーを出した。

 ハッとした公一は、すかさずポルシェ純正トランペット型ホーンの甲高い音を浴びせた。

 後ろを振り返った彼女に首を横に振って見せる。

勢いよくドアを開けた麗香が走り寄って来た。

「どうしてよ?!」

瞳を潤ませ、怒りを顕わにした彼女は、悔しげにそう叫んだ。

公一も車を降りると

「そんなデカイ車で何が出来るんだ。

 どこかの路地に逃げ込まれたらおしまいだよ。

俺の友達を信用してくれ、あれで伊達にストリート・ファイターの頂点にいる訳じゃない。

必ず、捕まえるさ。」

と言って、興奮する彼女の気持ちを落ち着けるように優しく肩に触れた。

 「分かった。」

そう答えると麗香は唇を噛みしめながら子供達の所に走り寄った。

 辺りは二台のモンスター・マシンが残した白煙が立ち込め、排気ガスと混じって、タイヤの焦げた匂いに包まれていた。

 事故現場にはもう随分人が集まって来ていた。

「救急車は近くの人が手配してくれたみたい。」

麗香が公一を振り返った。

「そうか、すぐ動かさないほうが良い。

頭を打ってるかも知れないから。」

周りに集まっている人達にも聞こえる様に大きな声で答えると、公一は今にも泣き出してしまいそうな麗香のほほにそっと手の平をあてた。

「大丈夫さ、きっと。」

当てられた公一の手の平が怒りに震えているのを感じた麗香は、その手の甲にそっと自分の手のひらを重ねた。

 どこからか微かにサイレンの音が聞こえてきた。

 暴走族は二手に分かれた。

 ヤマハは商店街通りの車をかき分けながら必死に逃げ、大多喜ガス方面に向かった。

 スズキの二台は夷隅方面へと二手に分かれた。

 香川秀彦は、ヤマハを追って、高城和雅は、スズキを追って、それぞれも分かれた。

 無言だが、完璧なチームプレーだった。

 大多喜ガス工場前のスクランブルX字形、変形交差点の手前でヤマハを射程距離においた香川だったが、そいつが通過中にシグナルが赤に変わりそうになると、即座に左グリップに取り付けられたスーパーチャージャーを起動させるプッシュ・スウィチを押した。

甲高いタービンノイズが響くと、急激にコンプレッションが高められたエンジンは、巨大トルクを一気に叩き出す。

 いきなり、激しくホイルスピンを始めたが、その直後、いとも簡単に巨大なVMAXを前方へ、はじき飛ばした。

あたかも航空母艦からカタパルト発射されたF14・トムキャットジェット戦闘機の様だ。

鍛え上げられた彼の肉体ですら、吐き気をもよおす。

 奥歯をしっかり噛みしめダミー・タンクにバトル・スーツの胸部をたたき付けるようにして可能な限り低く構えた香川秀彦は急速にフロントの加重が抜けてゆくマシンを必死に押さえつけた。 

 まるで化け物の雄叫びの様なその咆吼とスピードに、見切り発車しようとしていた連中が驚いてブレーキをかけた。

瞬時に状況判断した香川秀彦は左方向のコーナーに対して逆の方向に無理矢理ステアリングを切った。

 ぐらっと巨大な車体が左へ倒れると、すぐズルッとテールスライドが起きた。

 香川秀彦はすっとステアリングを流れ出した方向に当てた。

 いわゆる二輪の逆ハンだ。

 慎重且つ大胆なステアリング操作を駆使し、車体をすぐさま垂直に戻すと、立ち上がった直線路をフルブーストで加速した。

 エンジンのピストン・スピードは狂った様に上昇し、暴走族との距離が一瞬にして縮まった。

 ヤマハの男がバックミラーを覗いた。

 見なければ良かったのかもしれない。

 香川秀彦の白いヘルメットに滑らかに描かれた黒い鏃(やじり)模様と地獄からの使者のようなバトル・スーツが相俟って、訳の分からぬ恐怖がこみ上げてきたからだ。

 血も凍る衝撃に包まれたその男はどうしたことか突然ブレーキを掛けた。

 脇の路地でも逃げ込むつもりだったのかもしれない。

 だが元々たいした整備などしていなかったそのバイクはフルブレーキングに対処出来る訳がない。

 前後輪ともロックすると車体は激しいウォブルに見舞われた。

 それを、なんとか腕力で押さえ込もうとしたようだが、テクニックの貧弱さによって、無様に転倒した。

香川は、道のギャップを拾っては空転するリア・タイヤを宥めながらスーパーチャージャーの駆動スウィッチを切り、同時に急制動を敢行した。

フルロックしたタイヤと路面の摩擦で白煙が吹き上がったが、絶妙のステアリングコントロールで停止させた。

ゆっくりとした足取りでその男に近づいた。

 ようやく立ち上がったそいつは何かを叫んだ。

 そして恐怖に駆られた瞳を向けるとジャンパーのポケットに携帯していた三段に伸びる特殊警棒を取り出し、一閃した。

香川は左手を上げて、まともにその攻撃を受け止めた。

 外腕部の堅固な黒いプロテクターが鈍い音を出した。

トレード・マークである黒い鏃をあしらったジェット型ヘルメットに取り付けられたパステル・ブルー・カラーの回転シールドを開口すると

「お遊びはこれまでだ。」

と低くつぶやいた。

「くそっ。」

シールドも枠縁すら無い、汚らしいフル・ヘルをかぶった男が再び挑んできた。

香川はそれをスウェーバックで避けると、態勢を崩してうつむいたその男の後頭部に、右手を斧のように振り下ろした。

 上腕回りだけでも子供の胴以上も太いその腕が男の後頭部に激突した。

 ヘルメットの上から殴られたのにも拘わらず男の腰がくだけ、まるで受け身も取らずに昏倒した。

 立ったまま失神していたのだった。

「こいつは当て逃げした犯人だ。

誰か警察に連絡してくれ。」

そう香川が叫ぶと

「俺、さっきの事故、見てたんだ。

仲間が今電話してます。」

近くで事の成り行きを見守っていた数名のライダー達の一人が答えた。

彼はそのライダーにさっと手を上げて挨拶すると、横転したその男のバイクまで歩んだ。

それを軽々と起こすと、車道から出した。

周りに先程のライダー達が集まってきた。

「警察に連絡しました。

あの・・・

ガルフウォリアさんですよね?

あなたのオートバイを見せてもらって良いですか?」

と、言った。

「ああ。

でも、急いでるんで、あまり長くは勘弁してくれ。

警察がくるとやっかいだからさ。」

 落ち着いた話し方で香川はそう答えた。

「はい、分かりました。

ありがとうございます。」

 彼らは嬉しさから小踊りするようにVMAXへと走り寄った。

 瞳を輝かせて熱心に細部を見入る若いライダー達を腕組みして見ながら、香川秀彦は、自分もあんな時代もあったのかなと思っていた。

 そして、彼らには、決してこんな糞やろうになって欲しくないもんだと唇を歪めた。

スズキの二台は広い農道を夷隅方面から今度は一の宮方面へと左折した。

見通しの良い交差点なので高城和雅にもそれがよく見えた。

 彼はギリギリまでブレーキングを遅らせるとクロス・ポイントの直前で思い切りフル・ブレーキングを敢行した。

 同時に素早く一速にシフト・ダウンしておいてクラッチを握ったままミッションを待機させた。

 フロントのUSA・シフトン・フル・メタル・パッドがロッキード・鋼鉄製デュアル・ディスク・ローターを強烈に締め付ける。

 オイル式アンチ・ノーズ・ダイブが効いている為そのフロント・フォークは大きく沈まない。

交差点に突入すると、すぐ車体を寝かせ同時にブレーキの主導権をリアに移動させた。

リア・ホイールはたまらずフル・ロックした。

 既に重心がコーナーの内側にあるKZ1000Rはそのテールを大きく振り出した。

 高城和雅はすかさずカウンターステアを当てると、待ってましたとばかりに絶妙のタイミングでクラッチを継いだ。

 レーシング・システムに強化済みのフライ・ホイールとミッションが連結した。

 車体はまだテール・スライド状態にあったが彼は全くお構い無しにフル・スロットルを与えた。

 そして、路肩へスキッド・アウトしようとするマシンを、そのフロントを空中に上げることによって無理矢理に内向性を持たせた。

 よく狭いスタジアム・クロスではこれに似た行為を見掛けることがあるが、それは軽量に設計されたオフロード専用車ならではのこと、この重量で、しかも公道でこれをやるには相当の体格と技術と、そして勇気?がいるはずだ。

人の悪い奴はそれをただの馬鹿だというが、とにかく掛川のロードボンバーこと高城和雅は、その非常識なコーナーリングによってスズキの二台に、あっと言う間に追い付く事が出来た。

障害物の全く無い農道なので、フルチューニングの施されたKZ1000Rの敵ではない。

ギヤを一段落として急激にスロットルを捻ると、レクトロンのキャブレターは鋭い吸気音をたて、同時にフランス製デビルのエクゾースト・マフラーが怒りの咆哮をあげた。

「止まれ!!」

前を走るバイクの隣に並ぶと、高城はそう叫んだ。

「うるセー!!」

暴走族風の男はそう言い捨てた。

「止まらなければ、けり飛ばすぞ!!」

「やれるもんならやってみろ!!」

 高城はその言葉に躊躇なく、如何にも堅牢そうなモトクロスブーツで、横から蹴りを入れた。

 フラフラと大げさに車体を揺さぶられたそいつは、横の藪に突っ込んだ。

 後ろのバイクはビビったのか、そのまま停止した。

 藪からようやく這い出した男は四つんばいになっていた。

「やってみろって言うから、やったぞ。」

高城は、スモークシールド越しに落ち着いた声で、そう言った。

「何すんだよ!」

男が興奮状態の上ずった声を出した。

「俺は何にもしてねぇ。」

もう一台の方は、少し青ざめて、がたがたと震えた。

子供を跳ねた男は、ズボンのポケットからナイフを取り出すと、それを一閃した。

 高城和雅はそれをいとも簡単に避けると、男の膝を横方向から蹴り飛ばした。

 もちろん靱帯が断裂しないよう手加減を加えてやったつもりだ。

 男は声も出すことができずもんどりうった。

 激痛と恐怖に脂汗をかいているようだ。

 すかさず今度は側頭部を蹴った。

 これも頭蓋骨がつぶれないように、柔らかい部分を使った。

 男は一瞬の内に気絶すると白目をむいて口から血泡を吐く。

 高城和雅は履いているモトクロス・ブーツで、その男の顔を踏んづけると横に向けた。

「窒息でもされたら俺は殺人犯になっちまうからな。」

低く圧し殺した声でそうつぶやくとナイフを拾い、もう一人に近付いた。

蒼白になって立ち尽くしていたその男が、やっと口を開いた。

「俺、なんもやってねぇよ。」

その表情は恐怖に震えていた。

「こんなもん持ってても使い方しらねぇんじゃ、だめじゃねぇか?」

 高城和雅はその男にナイフを見せて、そう言った。

 「ひゃっ。」

 男は弾かれたように後ずさりした。

 「自分のいいように生きるつもりなら覚悟決めないと、中途半端だと、つまらねぇ生き様になるぞ。」

高城和雅はナイフをバトルスーツのポケットに仕舞い

「お前は怖かったんだよな?

さっき、お前だけは、止まろうとしたのは分かってんだ。

それに、自分だけどっかに行けばよかったのに、こいつにくっついてたのは、不安でしょうがなかったからだろう?」

と言った。

若い男は、そう言われると、目にいっぱい涙をためた。

「お前なら、立ち直れる。

これに懲りたら、こんな馬鹿どもと、連むの止めるんだな。

すぐ、警察を呼べ。

それで、正直にしてきた事話すんだぞ。

分かったか?」

高城は優しくそう話した。

「分かったよ・・・」

「よし。

お前を信じるぜ。」

 高城は最後にそう言い残すと、その場でアクセルターンし、デビルの奏でる猛獣の叫び声にも似たエクゾーストノートを響かせた。

 ホイール・スピンの白煙をその場に残し、高々とフロントを上げると、もと来た道を戻って行った。

事故現場の少し手前まで来るとドライブインの駐車場で手を振っている香川秀彦を確認した高城はそこで停車した。

「どうしたんですか?」

シールドを上げて高城が尋ねた。

「事故現場はおまわりさんだらけだろ。

あまりお会いしたくないんでね。」

成る程、奥にポルシェとフェラーリが停まっていた。

「ところでそっちは?」

香川が高城に質問した。

「そちらはどうでした?」

お互いの自慢に満ちた笑顔を見れば、答えは言わずと知れていた。

「子供達はすぐに気がついて、大泣きしてたよ。

少し、ホッとした。

家族と救急車で病院へ行くの見て、移動したんだ。

ご苦労様。」

公一が二人の労をねぎらった。

 麗香も駆け寄ってきた。

第四章(ふたり)

4.1(再会)

11月も終わりだというに、このところ続く暖冬の影響で、例年になく暖かい日々が続いていた。

靖国公一は、普段仕事のため使用するトヨタ・タウンエースSW4X4をドライブして、東伊豆のルート135を下田方面へ南下していた。

今日は伊東市へと向かっていたのだ。

彼の仕事は、建築の際、インテリアのアドバイスや、関連商品の販売。

それらの工事を請けおうといったものだった。

仕事は幅広く、個人住宅から各種のテナント、ホテル等商業媒体まで、プランニング、コンサルティングを行い、トータルでコーディネートした。

土産屋が立ち並ぶ国道から山側にステアリングを切ると、沿道には、いかにも若者好みのしそうなペンションがポツリポツリと見え始めた。

 一瞬、日本に居ることを忘れてしまいそうな雰囲気をもつ建物ばかりで、それに合わせたのか、街路樹は針葉樹広葉樹に混じって、熱帯性の植物までが植わっていた。

さすがに伊豆は普段から温暖な土地柄なのだと感じさせられる道を進んでいくと、一碧湖に出た。

伊豆半島にしては、あまり多くの娯楽施設はなく、美術館などがある、どちらかというと閑静な場所だった。

以前から存在していたらしき道から、鬱蒼とした木々の間を切り開いて作られた、新しい道へ入った。

途端に、緑豊かな土地本来の姿を現すと、木々の合間から射し込む陽ざしがキラキラと輝く。

それは、きちっと、間伐されているため、その先の、湖までが見渡せた。

公一は、その清々しさに、無意識のうち、微笑んでいた。

前方に建設途中の大きな建造物が見えてきた。

 それまでのペンションなどと比べると、比較にならないほどの質感のある、まるでヨーロッパのキャッスルを、そのまま運び込んだかのような荘厳な石造りが特徴だった。

公一は、まだ整備されていない敷地内にタウンエースを乗り入れた。

本来、靖国は、責任の所在が曖昧になりがちだと思うところがあるため、こういった大規模な物件は受けなかったのだが、施主がたまたま見た物件が、彼の手がけたものだったらしく、何回か手直しを要求されていた建築会社が、靖国公一を見つけ出したという経緯があった。

胸のバッチに現場監督中島と書かれた初老の男が現れた。

今日が初めての顔合わせだった。

建築関係者も、仕事を進めたいからか、直接現場でのブッキングとなったのだ。

仕事なので、今日は、革ジャンパーではなく、グッチのチャコールグレー・ジャケットに、カジュアルシャツとタイを合わせ、カーキ色のコットンパンツに、足元は同じくグッチのモカシン・シューズといういでたちをした公一は、丁寧に挨拶した。

頑健な体躯には、胸元のVゾーンを深くデザインされたイタリア製のデザインがよく似合っていた。

「時間、大丈夫でしたか?」

ロレックス・オイスター・デイトの実用本意に仕立てられた白い文字盤を覗いた公一が尋ねた。

 午前十一時ジャストぐらいだった。

「ああ、今日は施主さんも来てるんだ。

あんたの手がけたって何処かの店を見たらしくて、直接会いたいって事だ。

全く何度もインテリアの見直しを言ってくるんだから適わないけど、とにかく相手は日本でもの大企業だから、言葉には気をつけてくれよ。」

中島は神経質そうに早口でそう言った。

「かしこまりました。」

信頼関係があるわけではなかったので、その口調に少しむっとしたが、公一は営業笑いしてみせた。

「まあでも、これだけの建築を依頼してくるほどだから、ワガママも聞かないとならないけど、他にも仕事が詰まって来てるし、何とか、適当なところで納得してもらえないか説得して欲しいんだ。」

緊張からか、暖冬のせいか、うっすら額に汗を浮かべた中島はそう言いながら苦笑いして見せた。

「これだけの建物ですから、全てに拘る方なんでしょうね。」

公一は周囲を見回して、そう答えた。

「とにかく、あんたは、その施主と直接話してみてくれ。

また、変更はかなわないからさ。」

 現場監督の中島は面倒くさそうにした。

「とにかく、お話しさせてもらいます。」

公一はいつも持ち歩いているワーク・ノートを小わきに抱えると中島に続いて建物の中に入った。

天井まで吹き抜けになった、石造りのかなり広い空間のエントランスが、目の前に広がった。

二階の回廊からはそこを見下ろすことが出来るような作りになっていて、中央に配置した、いわゆるベルサイユ式の幅の広い階段を上がると、二階から上が客室になる予定だった。

勿論、エレベーターも作るが、今のところはただの空間だった。

中島は急ぎ足で建物の中を進むと、レストランとなる予定の広い空間になった場所へ入った。

「済みません。

インテリア・コーディネーターが到着しました。」

「おはようございます。」

中島の後に、公一は建築関係者の集まっている方に声を掛けた。

簡易テーブル上の設計図を覗き込んでいた数人の男たちの中で、顔を上げたのは、あの御門麗香だった。

 今日は自慢の長い黒髪をポニーテールにしている。

 この髪形が似合う日本人はなかなかいないものだが、頭の小さな彼女にはよく合っていた。

 相変わらず隙のない端正な顔立ちは、作業着姿の無粋な男達の間にひときわ目立つ存在だった。

公一は少し驚いたが、仕事なので、しっかりお辞儀した。

「あら?!

公一さんって、インテリア・コーディネーターでいらしたの?」

ミュグレーのダークブラウンのスーツを完璧に着こなした麗香がにっこりと笑った。

「こんにちは。

麗香さんが施主?」

「こんにちは。

そうなの。

ここら辺は、父の会社が開発してるのよ。

 場所がとても気にいったてから、私が責任者にしてもらったの。

 この雰囲気にふさわしくしたいと思うのだけど、どうも、いまひとつ考えがうまくまとまらないのよね・・・」

麗香は公一の所まで歩みながら辺りを見回した。

「ねえ、横浜のベイサイド・ローズベイクラブを手がけたのは、公一さんだったの?」

「ああ。

以前からの知り合いで、頼まれたんだ。」

「あのバーカウンターはどこで手に入れたの?」

「親戚がインポートの仕事しててね。

シカゴで、たまたま1930年代頃の出物があったのを抑えておいてくれたんで、船便で送ってもらったんだよ。」

「やっぱり。

あれは、良いものよね。」

途端にテンションが上がった様子の麗香に周囲が驚いていた。

「このホテル、公一さんだったら、どうします?」

そう言って麗香は彼の持っていたワーク・ノートをそっと取り上げ、中を覗いた。

「そうだね。

高級品だし確かにすべて高品質の物でまとめられてるけど、まるで美術館のようになっちゃって、ホテル本来のカスタマーへの使い勝手が、ちょっとって思うんだよね。」

 公一が仕事の表情になって真剣にノートを覗き込む麗香を見た。

 「どれも最高の品なんだけどな。」

そう答えた麗香は、新しい公一の表情をかいま見た気がしてちょっと嬉しくなっていた。

「エクステリアを見たら、ラインラントのエルツ城に似てる気がしたんだけど。」

「そう!!

ドイツに行った時、一目惚れしちゃったんだ。

佇まいは、白亜の城、ノイスヴァンシュタインの方が、荘厳だけど、エルツには落ち着いた魅力を感じて、ここにも合いそうなんじゃないかしらって思ったの。

一目で見抜くなんて、さすがね。」

麗香は瞳をキラキラさせて喜んだ。

「ナポレオンがライン川西岸を席巻したけど、唯一落とす事が出来なかった難攻不落の城だからね。

もともと、建物好きだし、たまたま知ってたんだ。」

「フゥン・・・」

麗香は公一の瞳をじっと覗き込むようにした。

「何?」

公一は怪訝な顔をした。

「公一さんって、いつも、たまたまとか、偶然とかって使うから・・・」

「そうかな・・・?」

「まあ、良いわ。

それで、ご意見を聞かせてよ?」

「外観はエルツ城をモチーフにしているけど、中は、サンクトペテルスブルグにあるエスカテリーナ・二世の宮殿をモチーフにしてるのじゃないかと思うんだけど・・・?」

「そうよ。

やっぱり分かっちゃうのね?

そう言えば、葉山にいらした時も、建物を褒めてくれたわよね?」

 麗香は、無邪気に笑った。

「本物の建築物は好きなんだよ。

エルミタージュは、ベルサイユ宮殿に対抗して作られたとされる、ロシアを代表する世界屈指の宮殿だけど、どちらかというと、俺はメリハリ感のしっかりしたエルミタージュの方が好きかな・・・」

「わたくしもなのよ。

どちらも直接観てきたけど、私もエルミタージュの方がはっきりしている感じがしたの。」

麗香は宝石のようにきらきらと輝く猫科の瞳を公一に向け、嬉ししそうに話した。

「そんなホテルが出来て、お客様が訪れたら、きっとワクワクした気持ちのまま、中に入って来るだろうね。

そして、中に入ったら、さらにときめく。」

「そう。」

「でもね。

そんな夢のような時間を、緊張しない調度品によって、リラックスできる。

そんな空間が望ましいと思わない?

それが機能美ってことなんじゃないのかなって思ってるんだ。

豪華だけじゃない、本質を極めたメーカーも、世界にはたくさんあると思うよ。」

公一は荘厳にして贅沢な作りの建物を見渡した。

「公一さんが、選んでくれるのよね?」

「一応そう言われているけど、決定権はないよ。

でも、出来る限り、お客様がまた来たいなって感じられるものをチョイス出来たら良いなって思ってる。」

「分かった。

じゃあ、お任せします。

焦らないで、じっくり考えてね。」

麗香はそう答えてワーク・ノートを公一に返した。

「俺なんかに任せて良いのかい?」

 公一が尋ねた。

「ええ。

公一さんはプロだし、私の気持ちと、どこか通じるものを感じるんですもの。」

麗香はそう答えると、公一の肩に付いていた埃を目ざとく見付け、それをそっと取った。

「あの・・・それでよろしいんですか?」

黙ってそのやり取りを聞いていた中島が、今度は愛想笑いを浮かべて寄って来た。

「今申し上げたとおりです。

 靖国さんのお考えどおりに進めて下されば、今後わたくしは一切言葉を挟みません。」

麗香は再び仕事の顔にもどると、毅然とした態度でそう言った。

「はい、かしこまりました。

 これからも、どうぞご贔屓に願います。」

中島は、麗香に向かって髪の毛の薄くなった頭を一生懸命に下げながら、礼を言った。

 「オープンは急いでません。

 しっかりと作っていただきたいわ。」

麗香はそう言って軽く会釈をすると、中島を現場に帰した。

 それから公一に

「お食事まだだったらご一緒しない?」

と言った。

「良いよ。」

公一はそう返事すると、揃って外に出た。

 「公一さんが、現場責任者になってくだされば良いのに。」

 麗香が公一を見た。

 「ええっ!

 そうもいかないでしょ。

だって、建築なんて分からないし、資格もないよ。

大きな建築会社なんだし、任せなさいって。」

 公一は突然の素人意見に、どきっとした。

「ふぅん。

そういうものなのね。」

 麗香が小首をかしげて見せた。

「今日はあれで来たの。」

外に出ると、麗香は建物のちょうど裏手にある空き地に置かれた深いブリティッシュ・グリーンのロールス・ロイス・ファンタム・ファイブを指さした。

「素敵な車だね。」

公一はそちらに顔を向けた。

「まさかこんなふうになるとは思わなかったから。

 そうだ、ちょっと待っていて。」

そう言うと彼女は小走りにロールスへと向かった。

 車から慌ててショーファーが飛び出した。

 深々と頭を下げるショーファーに何かを告げると、そのショーファーは再び頭を下げ、ロールスのドライバーズ・シートに戻った。

「おまたせ。」

走り帰って来た麗香は、顔を少し紅潮させていた。

「ハイヒールじゃなくても、足元に気を付けないと、まだいろんなもんが落ちてるから危ないよ。」

公一はやさしい笑みを浮かべた。

「大丈夫よ。

それより公一さんはなんでいらしたの?」

「あれ。」

彼はタウンエースSW4X4を指さした。

「今日はポルシェじゃないのね。」

「仕事では乗らないんだ。

893は、それだけのために時間を使いたいんだよね。」

「乗せてくださるの?」

「勿論。」

二人はタウンエースに乗り込むとルート135へ戻った。

トランス・ミッションをDレンジに入れ、ステアリングと右足だけの操作になった公一が

「食事は俺に任せてくれる?」

と言った。

「ええ、お願いするわ。

私、こんな車乗ったの初めて。」

彼女は遊園地の乗り物にでも乗ったようにはしゃいで見せた。

「こんなってことは無いだろ。」

公一は唇を歪めた。

「御免なさい、言い方が悪かったわね・・・」

麗香はすぐにそう詫びた。

そして

「千葉に行ったとき以来、私に全然連絡してくれなかったわね。」

 と公一の方を見た。

「忙しくて・・・」

「嘘。

電話一つ入れる暇がなかったなんて考えづらいわ。

今だって、わざと厭味に解釈したでしょ?」

麗香は憮然とした顔向けた。

 公一はいろいろな表情を見せる彼女がとても新鮮で不思議だった。

 ラ・セーヌでは気高く聡明なレディーなのに、時として、今のように、まるで幼い少女のように、だだをこねるときもあれば、ひと度マシンのコックピットに収まると、歴戦の勇者と化す。

 そのすべてが御門麗香という人なのだから分からない。

 「何か勘違いをしてるな、キミは。」

 公一は、短く、そう返事した。

「・・・」

麗香は無表情のまま、ウインドーの方向へ視線を向けた。

それから二人は無言のまま、しばらく気まずい雰囲気が続いた。

「せっかく、またこうやって会えたのに、気分壊しちゃったみたいで悪かったね。」

信号待ちの際、公一が麗香を見ると、彼女は、またちょっとだけ笑った。

ルート135から、川奈口の信号を川奈ホテルへ続く道へ曲がった。

途中にあるT字路をさらに右折すると、つづら折れの下り坂になる。

道沿いに点在する古い民家や、海を見下ろすように建つ、こぢんまりとした学校など、趣を感じられ、凄く気分が良い。

そのまま進むと、やがて、海岸線の道路へ突き当たった。

 公一は左折した。

 伊豆半島らしい小さな入り江のその場所は、観光地ではない落ち着いた感じがした。

少し走ると、公一はウインカーを出した。

 ウィーク・デーにも拘らず駐車場にはたくさんの車が在った。

 空いているスペースにタウンエースSW4X4を乗り入れた二人は、二階へ上がった。

全て座敷になっていて、浜茶屋のような横長のテーブルがずらっと並んでいた。

運良く、景色を楽しめる窓際の席が空いていた。

公一は窮屈そうなジャケットのボタンを外して、座布団に座った。

発達した筋肉のため、そのまま座ったら、ボタンが弾けてしまうかもしれないからだった。

麗香は、二人ぶんの靴をきちっと揃えると、公一の左側で正座した。

その所作は、ただの成り上がりとは違う品格を感じさせ、御門麗香の素性が何と無く理解できる気がした。

海がすぐ目の前に見えて、とても清々しい気持ちになる。

 「人気のあるお店みたいね?」

 麗香が公一に尋ねた。

「週末は結構並んで待ってる人も多いよ。

 この、お店はみそ汁が専門なんだよ。

 すごい種類のメニューだろ?」

上体をリラックスさせた公一が得意そうに説明した。

「どれも美味しそうよね。

お味噌汁は、栄養価が高いし、基礎代謝良くするから、ダイエット効果を期待できるのよね。」

興味津々で品書きを見る彼女は楽しそうだった。

 先ほどの不機嫌はすっかりなくなっているようで、ホッとした。

公一は渡り蟹のみそ汁と海の幸の雑炊をオーダーした。

麗香は、さざえのみそ汁と小ぶりの寿司をオーダーした。

寿司は、あわびの殻を皿がわりにした随分と洒落たものだった。

「美味しい!!

私のちょっと飲んでみて。」

麗香はそう言って器を差し出した。

直接で良いのかと思ったが、公一は向こうからそういってきたのだから、遠慮なく口をつけた。

「本当だ。

美味しいね。

良かったら、俺のも、どうぞ。」

公一は器を差し出すと、麗香は躊躇する事なく、口をつけた。

二人は、それから、寿司や雑炊も少しずつ分けあって、その味を確かめた。

 どれも、なかなかの味付けだった。

やっと打ち解けた様子の二人は、それから楽しい昼食を取ることが出来た。

「どう?」

「どれも美味しかったわ。」

「いつも豪勢な場所で、食事をしているだろうから、こういうお店はどうかなと思たったけど、そう言ってもらって安心したよ。」

備え付けのポットから給すに湯を入れながら公一が尋ねた。

「いつも食べてないわよ。

勝手に決めつけないでほしいわ。

屋台のラーメンも好きなんだから。」

「バケツで器を洗うような?」

「ええ。

そういうところも、美味しければ、行ったわよ。」

麗香はその急須をそっと取り上げると、互いの湯飲みに茶を注いだ。

「よかった。

そう言ってもらえると、連れてきた甲斐があって、嬉しいよ。

ちなみに、俺も屋台ラーメン好きさ。」

公一も素直にそう答えると、笑った。

そして

「さて、そろそろ帰ろう。

ショーファー氏が心配していると悪いから。」

 と言った。

「心配ないわ。

実は、帰しちゃったのよ。」

麗香がポツリと答えた。

 「えっ?」

 「久しぶりだし、公一さんと近くを少しドライブできないかしらって思っていたのだけど、無理?」

そう尋ねる麗香の美しい瞳を見ると、断れそうもなかった。

 公一は伝票を持ち上げると

「OK。

じゃあ、ちょっと付き合ってもらおうかな。」

と答えて立ち上がった。

「うんっ。」

麗香は本当に嬉しそうな表情を見せると、再び幼い少女のように公一の左腕にからんだ。

初めてのことに、公一は胸の高鳴りを抑えることができなかった。

4.2(ポルシェ893)

二人の乗ったタウンエースSW4X4は、再びルート135に戻ると、伊東市から、県道12号を中継して、伊豆スカイラインに入った。

 「どこへ行くの?」

麗香が尋ねた。

「どこだと思う?」

公一がニヤリとすると

「分かったわ。

楽しみにしておきます。」

と言って、彼女は微笑み返した。

しばらく走った頃

「仲間に聞いたんだけど、ここを、たまに走ってるんだって?」

と、今度は公一が質問した。

「えっ?」

「麗香さんのフェラーリを見掛けたみたいだからさ。

それも、相当スピード出していたって。」

「そう。

たまに来てるわ。」

麗香は正直に答えた。

「コブラの記録破りでも考えてるの?」

「伝説になっているくらいだし、興味がある人はたくさんいるでしょ?

もし、そうだとしても、何も私に限った事ないじゃない?

公一さんはどうなの?」

「ないとは言えないな。

でも、麗香さんのは、そんなのと違う、何か執念めいたものを感じるんだ。

コブラを、あの男って呼ぶだろう?

俺、ちょっとだけ、心配なんだよ。」

公一は運転しながら、そう言った。

「ありがとう・・・

わたくしを心配してくださっているのね。」

麗香が公一の横顔をみた。

「失礼なこと言うようだけど、麗香さんは、どこか俺と似てる気がしてるんだ。」

「えっ?」

「麗香さんは走り出したら、必ず、最後まで、何があっても走る事をやめない気がするんだ。

だから・・・」

「公一さん?」

麗香は彼の言葉を遮ると

「正直に話すわ。

私の目的は、ここの伝説を打ち破る事なの。

いつか、公一さんに、その意味をお話しするから、それまで待って。」

と言った。

「分かった。

君自身が決めたことに、俺が口出しする事はできないもんな。

麗香さんが話してくれるのを信じて、待ってるよ。」

公一は彼女の真剣な態度に、それ以上尋ねることを止めた。

観光バスがちらほらいたが、道路は空いていた。

天気が良く、見晴らしの良い丘陵地帯が続いている事で、二人とも、とても爽快な気分だった。

「ああ、そうだ。

言い忘れてた事がある。

 あれから一度も電話しなかったのは、君を誘って断られるのが嫌だったからなんだ。

 言わなきゃ断られるこもないって思ったんだけど、情けない理由だから、別に言わなかったんだ。」

突然、そう話した後、年甲斐もなく、はにかんだ公一を黙って見詰めていた麗香が

「馬鹿ねぇ。

どうして断るって決めつけるのよ。」

と言って、優しい笑顔を見せた。

熱海峠を北上し、ハングライダーのメッカである芦ノ湖スカイラインを通ると、仙石原へと進んだ公一は、歴代のポルシェを展示するミュージアムに着いた。

建物のエントラスは、チェス盤のようなモノトーンのチェック柄になったフロアで、ヨーロッパなどのホテルロビー等でよく見られる典型的なパターンだった。

 空間が広く取られている事で、全体は明るい雰囲気だった。

「ここに来たかったのね?」

彼女が尋ねた。

「ああ。

せっかくこっちに来たから、何となく寄りたかったんだ。」

そう返事した公一は、子供のような顔で端から見学し始めた。

しばらく、いろいろなシリーズを見て回っていたが、まだ来て間もないと思われる一台の車を確認した。

 真紅のボディーは間違いなく、あらゆる路面状態で世界最速を誇示するポルシェ959だった。

「これって、フルタイム4x4でしょ?

見ただけで乗り易い感じがするわね。」

麗香が言った。

「確かに良い車だろうね。

 だけど、これは自分がコントロールするというより、どちらかというと乗せられてるって感じがしない?

スポーツカーというより、メーカーのしつらえた、誰でも超スピードを体験することの出来る最高級のセーフティークルーザーみたいじゃん。」

 悪口を言っているようでも、少年のように瞳を輝かせる公一を見て麗香は愉快になった。

 「本当に素直じゃないんだから。」

 と呟いた。

 「え、何?」

 「ううん、何でもない。

それより、公一さんの持っている車って、資料がなんにもないのね。

 自分なりに調べてみたんだけど、何も見つからなかったわ。」

 麗香が少し不思議そうな顔を見せた。

 「ああ、そうだよ。

あの車は893って呼ばれてるようなんだけど、正式にはプロト・タイプなんだ。」

「初めて聞いたわ。」

「詳しくは知らないんだけど、うちのおじいちゃんの友達って人が政府に顔が効いたらしいんだ。

それで、車として、日本で正式に認められたけど、本当は怪しいものだったって事らしいよ。

当時の事だから、外車なんて、そんなに走ってなかったし、分からなかったのかもしれないけど、それで、世界で一台しかない車ってわけ。」

「ふーん、でも、ポルシェが公式にしてないのは、何故?」

「それも、家族から聞いた話だと、車のパーツに軍事機密に当たる物が使われていたらしくて、ないものにしたかったって話だよ?」

「軍事機密?!!」

麗香は大げさな話しに驚いて瞳を大きくした。

「はっきりとは聞いてないんだけど、うちのじいちゃんは、昔、ドイツで、車のパーツなんかの金属加工をしていて、その腕を見込んでくれたポルシェ博士が、あの車を作って見ないかと誘ってくれたんだって。

893は911の前、356との間で生まれたんだけど、レーサーだった550に存在したガルウイングドアになっているから、量産しようとは思わなかったのかもね。

とにかく、893は出来上がって、ノルトシュライフェ(ニュルブルクリンクサーキット北コース)でテストしたら、とんでもない性能だったというわけ。」

「公道サーキット育ちだから、日本の道路でも速いのね?」

「そうかも知れないね?」

公一は愉快そうに笑うと

「あるとき、ドイツ政府の人間が、ポルシェ社を訪ねてきて、893の事を聞いてきたんだけど、どうみても、軍に関係しているとしか思えないような感じがしたんだって。

あの893のエンジンは、おじいちゃんが作ったらしい金属で出来ていて、軍はその技術が欲しかったらしいんだ。」

「おじい様って、とても優秀でいらしたのね?」

「孫がこんなだけどね。」

公一が笑った。

「こんなって?」

麗香が怪訝そうに眉を上げた。

「たいした事もせずに、年だけとっちゃったって事。」

「どうして、そんな事言うの?

公一さんだって、ちゃんと、お仕事なさってるじゃない?」

麗香は突然声を張った。

「えっ?

だって、俺はただのインテリア屋で、それも、親父の後継いだだけで、おじいちゃんはドイツで軍が追いかけるほどの何かを作った人なんだよ?」

公一は眉を寄せた。

「比較する必要なんかないじゃない。

私は公一さんが手がけたお店を偶然知って、こんな素敵なお仕事してる人に、あのホテルを頼みたいって思ったのよ。

公一さんは、ご自分で工事までしているでしょ?

経営者として直接打ち合わせして、職人としても、とても丁寧な人だって、お聞きしたのよ。」

「それは、ありがとう。」

「だから、自分を、こんなだなんて言うの止めて。」

麗香は、真剣な瞳をした。

「そんなムキにならなくても、良いよ。

俺の事、そう思ってくれてありがとう。

こんなって言ったけど、実際は、自分の仕事に誇りを持ってはいるんだ。

好きだしね。」

「そうよ。

人それぞれ、道は違って当然でしょ?

何でも、真剣に極めようとする事に意味があるはずだわ。」

「確かにそうだね。」

公一は、この時、ずいぶんと年下の彼女の言葉に、力づけられた気がした。

「893が、とても美しいモールドしてるのは、レーシングカーみたいに、全てワンオフだからだったのね。」

麗香は特徴的だった車を思い出していた。

「ありがとう。」

公一はちょっと照れた。

「でも、なんで、研究者がインテリアのお仕事に変わったの?

失礼じゃなければ、聞いて良い?」

「失礼じゃないさ。

軍に追われていたおじいちゃんは、何とかドイツを出て、日本へ帰って来たんだけど、親父は、おじいちゃんを手伝っていた時もあったから、自分たちの過去を知られないように、今の仕事を始めたって聞いたんだ。

もともと、二人とも、建物は好きだったらしいんだ。

何より、日本の建築がね。

その後、ドイツに置いておけないってことだったからか、893が荷物として偽って、船で送られてきたんだ。

そこで、政府に顔が利くって人が、うまくやってくれたらしいよ。」

「きっと、ご家族の安全を考えて、そうされたんでしょうね。

その政府に顔のきく方は、どうなったのかしら?」

「わからないんだよね。

お袋は、その人のこと話してくれないし、何も知らない方が良いって感じなんだ。」

「そうよね。

公一さんは、素敵なデザインが作れる、腕のいい職人さんで良いんだし。」

麗香は優しく微笑むと、そっと公一の腕に触れた。

それから二人は、再びタウンエースSW4X4に乗り込んで、今度は御殿場市街へと向かった。

「もう一つ行きたい場所があるんだけど、いいかな?」

公一がそう言うと

「私から、どこかに行きたいって誘ったんだし、もちろん良いわよ。」

麗香は楽しそうに笑った。

そして

 「公一さんは、ご家族と一緒に住んでいらっしゃるの?」

と質問した。

 「俺の家は、おじいちゃんが建ててくれたままの、古い四階建てのビルで、今は、お袋と兄弟と一緒に住んでるんだ。

妹と弟がいるけど、それぞれ相手がいるようだから、たまに留守になるし、もう少ししたら、俺とお袋の二人住まいになるだろうね。

実は元々、うちは大家族だったんだ。

おじいちゃんやおばあちゃんがいて、両親がいて。

食事はいつもみんな一緒で、わいわいがやがや、うるさい程だったんだよ。」

公一は、懐かそうな表情を浮かべた。

「なんだか、少し羨ましい。」

麗香は憂いのある表情をした。

「麗香さんについては聞いて良い?」

「私は、葉山のお店の隣に独りで住んでいるの。

家族は別なのよ。」

「そうなんだ。

一人暮らしなんて、俺には出来そうもないよ。

だって、家事は、ほとんど何も出来ないし、何より、あんなにうるさいと思っていた家庭が、どんどん減っちゃったら、急に寂しくなっちゃったんだ・・・

 そこにあって当然と思っていたものが、なくなっちゃったら、俺にとっては、思ってた以上に辛いことだったみたいなんだ・・・

兄弟たちは893に何の興味もないから、俺の所有になったし、趣味の合う友人もいるし、この車が縁で、麗香さんとだってこうして知り合えたんだから、全てがなくなっていく訳じゃいけどね。

新しく得たものだから、俺にとってはとても大切な事だって思ってるよ。」

公一が麗香の顔を見て、微笑んだ。

彼女は、どこか憂いのある表情を浮かべると、公一の腕にそっと触れた。

それから

「もし良かったら、さっきの続き、893について、もう少し詳しく聞かせていただけない?」

 と、尋ねた。

「うん・・・

おじいちゃんが死んだ後、親父はDr.フェリーやおじいちゃんにもったいないって、結局メンテナンスだけして、うちのガレージで、さっきのミュージアムの展示車の様になってたんだ。

 一年に数回だけ、たまに夜中出して、走っていたようだし、俺たちを乗っけて、ドライブに連れていってくれたよ。

その頃は、高速道路も、夜はまだ空いていてね。

幼かった妹なんかは、隙間に詰め込まれるもんだから、車酔いして大変だったけど、親父はそんなこと全然気にしなくて、懲りずに俺たちをドライブに連れて行ってくれたんだ・・・

俺のうちは千葉だけど、横浜の山下公園まで行って、夜景を見た事思い出すよ。

でも、そんな親父も、ちょっと前に死んじゃった・・・」

そう語る公一の横顔を見つめるうち、麗香はたまらない愛おしさを感じていた。

 「世界にたった一台しかないポルシェ・・・・

日本とドイツのマイスターが精魂込めて作り上げた手作りの作品。

他にない美しいモールドをしているのは、当然な事よね。

私の持っているようなマスプロダクトの製品とは比べものにならないわ。

それを、あんなに力一杯走らせられる公一さんが、羨ましいわ。」

麗香はそう言うと、公一の顔を見て、優しく笑った。

 公一は、東名高速道路の高架橋の手前を右折した。

 街道沿いは派手な看板の目立つモーテル街になっていてちょっと怪しげな雰囲気だが、麗香は気にも留めない様子だった。

ここを突き当たると、ファミリー向け遊園地、御殿場ファミリー・ランドがある。

その少し手前で、東名高速道路をアンダーパスすると、右手に大きな倉庫のような建物が見えた。

公一は、その前方にある、広い駐車場に車を止めた。

建物内は全面板張の床上に各時代を代表するオートバイのレーサーだけを収集した博物館になっていた。

 バイクマニアの間で、その名も高いFMM(フジ・モーター・ミュージアム)だった。

往年の名車の数々を眺めながら二人はしばし沈黙した。

 何故ならば、それまで世界中のレース・ファンを魅了し、興奮の坩堝にたたき込んだであろうマシン達が、今は静かに時の流れに身を任せている姿に、たまらない哀愁を感じたからにほかならない。

 「さっきのミュージアムも見応えあったけど、レーサーのように、一つに特化されて造られたものは、二輪、四輪問わず美しいって思うんだ。」

公一が感慨深げに語った。

「本当に奇麗ね。

香川さんにお聞きしたんだけど、公一さんも、以前はオートバイに乗っていたのよね?」

「うん、みんなほど上手じゃなかったけどね。

それでも、一生懸命に乗ってたよ。

 色だって、いつも、特注の真っ赤っかに塗っていた。」

「ふふっ。」

彼女は含み笑いをした。

「何?

何で笑ったの?」

公一は怪訝そうな表情を作った。

「高校の修学旅行で富士五湖に行ったの。

その頃の我が家は、事情があって、毎日がとってもつまらなかったし、私には幼馴染と呼べるほどの親友もいなくて、学校に行っても、ほとんど、一人だったから、つまらない毎日だったんだ。

でも、修学旅行だけは、ちょっと楽しみだったの。

幼い頃から、乗り物から見る景色を眺めるのが好きだったから。

あれは、まだ薄暗い、夜明けの高速道路をバスで走っていた時だった。

話の合う友達がいなかったから、走り去る外の景色を眺めていた時、私の窓の下を、あっという間にバイクが抜き去って行ったの。

赤いバイクに赤いつなぎ服、ヘルメットまで真っ赤だった。

だけど、それが、とても鮮やかなカラーで、みんな気にしてなかったけど、私は、何だか、忘れられなかったのよ。

それから、湖を順番に回り始めたんだけど、その時、また窓の下を、あっという間に、抜き去ったバイクがいたの。

朝見たときと、同じライダーだった。

胸がぎゅっとして、興奮してた。

ライダーは、バイクを激しくバンクさせながら、つづら折れの湖畔の道路を、あっという間に走り去ったわ。

私は、何故だか、そのライダーを忘れる事が出来なくなっていたの。

それから、休みの日になると、その人の事を調べるため、バイク屋さん巡りをしたの。

無茶よね?

誰かも知らないのに・・・

でも、私には、それが楽しみになっていたの。

そのうち、免許も取って、750ccを買ったわ。

いろんなところへ出かけたけど、残念ながら、その人の事は分からずじまいだった。

でも、何ヶ月か目に、ようやく、それらしき人の情報を手に入れたの。

とっても速い、命知らずのライダーで、その人は、赤の流星(あかのりゅうせい)って呼ばれていた人だろうって。

だけど、突然、どこにも現れなくなってしまったって。

私は、オートバイを降りたわ。

何だか、目標を無くしちゃった気がしたのよね。」

「・・・・・」

公一は麗香の話を、だまって聞いていた。

「公一さんが、バイクに特注の色に塗っていたのは、レゾナールのレッドでしょ?」

「どうだったかな?」

公一は微笑んだ。

「わざわざ、特注で塗っていたのに、忘れちゃったの?」

「確か、そうだったような気もするよ。」

公一は曖昧に答えた。

「これも、香川さんからお伺いしたんだけど、レゾナールのレッドは、赤の流星のシンボルカラーだったのよね?

それから、公一さんは嫌でバイクを降りたんじゃないって。

怖くなったからでもないって話してくれたわ。

大きな事故を起こしてしまって、家族に迷惑をかけたと、反省したから、断腸の思いで、降りたんだって。」

麗香が、公一をじっと見つめた。

「それは、いつ聞いたの?」

「初めてお会いした日。

オートバイの事、色々と話していたら、偶然、その話が聞けちゃったんだ。

何年もかかったけど、ようやく、結論にたどり着けたのよ。」

「まいったな・・・」

公一は気恥ずかしそうに頭を掻いた。

「オートバイには、もう乗らないの?」

そう言う麗香の問い掛けに、少し黙っていた公一は

「そうだな・・・

家族に迷惑をかけたのは事実だったけど、理由はもうひとつあるんだ。

俺にとって、オートバイは、車より人間の感性に近い乗り物だったんだよ。

飛んできた石ころだって、ぶつかれば弾丸のように危険なスピードで走ってたんだけど、あるときから、走りのリズムが合わなくなっていたんだ。

なんか、おかしいなって感じていたんだけど、大きな事故を起こしちゃったのは、そんな頃だったんだよ。

それまでの俺は、バイクに乗った以上、何が起きても、自己責任だから、死んでも構わないって思っていたところはあったから、怪我はすぐに納得したけど、それ以上に、感覚のズレが、あまりにもショックで、長い入院生活を送るうち、じっくり考えた上で、バイクは降りる事にしたんだ。」

公一は少し感傷的な表情でそう語った。

「そぅ・・・

なんとなく分かるような気がするわ。

 あれだけの走りをしているし、893には、そう感じる事はないのよね?」

「今のところはね。

でもね、この頃、俺は何故走るんだろうって、考えることがあるんだ。

893は、俺にとって、かけがえのない存在になのは間違いないんだけど、こんな使い方で良いのかなぁって思ったり、いや、もっと上があるはずだから、もっと付き合わなきゃって、思ったりする事もある。

競走馬って、どんなに年を取っても、走りたがるって聞いたことがあるんだけど、893もそういう生い立ちで生まれた車だから、同じように、朽ち果てるまで、そうさせてあげたいんだ。

その結果、どうなったとしてもね・・・」

公一は、少し遠くを見るような瞳をして見せた。

麗香は、その意味が少し分かっている気がしていた。

 だから、あえて、その先の言葉を聞く事はしなかった。

 「どうしたの?」

公一は急に黙ってしまった彼女に声を掛けた。

「ううん、何でもないわ。

オートバイが、とても奇麗なんで、つい見とれちゃっていたのよ。」

麗香は作り笑顔でごまかした。

総ての展示車を見終わるころには、辺りを焼き尽くす様な夕焼け空が広がっていた。

二人は駐車場に向かって歩き出した。

「私は、高校の修学旅行の日から、赤の流星と一緒に走る事が夢だった。

それがもう出来ないなら、今夜、一緒に食事くらいはしたいわ。

それなら、叶いそうかしら?」

麗香が公一を見た。

夕日に染まるそのエキゾチックな表情を見るだけで、たまらず酔ってしまいそうになる。

いつまでも慣れる事のない、本当に浮世離れした美貌だった。

「食事なら、もう何度も、してるじゃない?」

「また、そんな天邪鬼な事言うのね?」

「分かったよ。

それじゃあ、行きましょう。」

妖しげな瞳で見つめられた公一は、そう答えるしかなかった。

「嬉しいわ!」

麗香は、その言葉に、無邪気に喜んだ。

車に戻ると

「ねぇ、明日はお忙しいの?」

と、尋ねた。

「いや。

自宅で、麗香さんのプランを考えるくらいだよ。

でも、なんで?」

「別に、どうしているのかしらって、思っただけよ。」

麗香はそう言って、微笑んだ。

森林に囲まれた夕刻の箱根路を彼女の指示に従って少し行くと、駒ケ岳ロープウェイのステーションの前を通り、間も無く、芦ノ湖に面したリゾート型ホテルに寄った。

玄関前に到着すると若いベルスタッフが迎え出たが、タウンエースSW4X4を一瞥すると、無表情で挨拶をした。

 麗香は全く気にも留めず、黒茶色の磁器タイルが敷き詰められた、エントランスを、中へと入っていった。

程なくして、黒いタキシードを身に纏った壮年の男を連れ立って戻って来た。

「ようこそおいでくださいました。

 マネージャーの石橋と申します。」

男は、にこやかな笑みを浮かべると

「お荷物はございませんか?」

と公一に尋ねた。

「ありません。」

公一がそう答えると

「かしこまりました。

では、お車をお預かりさせていただきます。」

と言って、公一からキーを受け取った。

もう一人のベテランスタッフらしき男が足早に現れると

 「お嬢様、ようこそ、いらっしゃいました。」

 と丁寧に挨拶した。

 「お久しぶりです。」

 麗香は笑顔で答えた。

完全に無視された若いスタッフは、事の成り行きに表情をこわばらせたまま直立不動になっていた。

石橋は、二人をエスコートして、タイル敷きのエントランスを入った。

すると、そこから一転、深々とした赤色系の絨毯が敷き詰められたプラットホームは、天井が高く、見事な石壁が整然と並んでいた。

奥行き感を演出する優れたデザインだと感じた。

仕事柄以上に建築に興味がある公一は、じっくりと眺めたいものだと思いながら、くるりと周囲を見回した。

「それでは、お部屋まで御案内させていただきます。」

マネージャーがルーム・キーを持ってきた。

「えっ?」

公一は驚いて声を上げた。

「ありがとう。」

麗香はそう返事をすると、公一の太い左腕に体を寄せた。

彼女を見ると、その何かを訴えかけるような表情に、もう何も言えなかった。

シティーホテルのようなビルタイプではなく、東西の二つに別れた巨大な円形の建物の、湖を見下ろせる落ち着いた雰囲気のスウィート・ルームに通された。

「それでは、お食事の用意が整いますまで、しばらく、おくつろぎください。」

丁重に挨拶をすると、石橋は扉を静かに閉じた。

「良いお部屋でしょ?

会社を経営している父がお気に入りで、年間貸切にしてあるの。

でも、ほとんど使う事はないから、私がたまに利用してるのよ。

いつもは予約してから来るから、マネージャーを、ちょっとびっくりさせちゃった・・・」

麗香が透明感のある瞳を、宝石のようにキラキラさせて、にこやかに笑った。

「芦ノ湖が真ん前だし、確かに、素敵なホテルだと思うよ。

でも、夕食を食べに来ただけなんだから、部屋まで準備してくれなくて良かったのに?」

窓縁に立って麗香を振り向いた公一はそう言った。

「いつでも自由に使えるから、そうしただけよ。

お酒を飲んだら、少しは休んだ方がよろしいでしょ?」

麗香は公一に近づきながら、そう言った。

「俺は、飲まないようにするよ。

本当言うと、元々そんなに強くないから、どうしても飲みたいってほどでもないし。」

「ここのお料理とワインはとても合うのよ。

ちょっとは付き合ってくださらない?」

麗香は公一の隣に並んで立つと、そう言った。

「麗香さんを送らなきゃならないから、ちょっと心配だよ。」

「だから、お部屋で休めば良いじゃない?」

「快適すぎて、眠くなっちゃうよ。」

「寝ても良いじゃない?

だって、明日はお忙しくないんでしょ?」

麗香が、猫科の神秘的な瞳を見せると、公一の瞳を覗き込んだ。

「・・・・・」

公一は言葉を失った。

先ほど、明日の予定を尋ねてきた意味がはっきりした。

これは彼女からの誘いに違いないと思っていたが、あまりにも違う世界の女性だということも理解していたので、まるで、全てが夢のように感じられたのだ。

しばらくお互い無言のまま時が流れた。

秀麗な湖も、陽が落ちると何か少しもの悲しげに見える。

 木々が風にそよぐ音が、まるで寂しい調べのように聞こえた。

麗香が、公一の瞳をじっと見つめると

「私のしていることは、公一さんにとって迷惑なこと?」

と真面目な顔で質問した。

「いや、そんなことはないよ。

ただ・・・」

彼はそこで言葉を閉ざした。

「ただ・・・

ただ何?」

彼女は、透き通るような瞳を向けた。

「俺は今、とても困惑してる。         

 とにかく君の優しさは、嬉しいけど、反対に怖いんだよ。」

公一はじっと見つめる麗香の瞳を見た。

「過去を忘れることが出来ないのは仕方ないと思うわ。

 でも、素直に生きることって公一さんにとって、そんなに辛いことなの?」

じっと真っ直ぐに見つめてくる麗香に公一はまた言葉を失ったが、ある瞬間、何に拒絶していたのか、何に反抗していたのか、何だか、突然総てが馬鹿らしく思えて来た。

「君が俺を変えてくれるチャンスなのかもな・・・」

と言って、その顔をしっかり見つめ返した後は、余計な言葉はいらなかった。

 公一は麗香の唇に、そっと唇を重ねた。

4.3(決心)

朝日がドレープカーテンの隙間から差し込むと、いつに無く早く起きた公一だった。

少しの間、ベッドの上でまどろんでいたが、頭がはっきりしてくると、いつも早朝は苦手な筈なのにと、少し不思議な気がしていた。

ほのかに香ってくるフレグランスを近くに感じながら、ベッドから滑り降りると、大型のキャビネットに並べられたカップを2セットとアールグレイのティーバッグ取り出した。

 電気式ポットに適量入れミネラル・ウォーターを注ぐとスウィチを入れた。

 心が充実しているせいか、それとも興奮のせいなのか、公一はソファーに腰掛けて、早起きの原因をぼんやり考えていた。

ベッドでゆっくり上半身を起こした麗香が

「おはよう。

早いのね。」

と言って、透明感のある笑顔を見せた。

乱れた髪をしていても、その美貌には、なんの障害にもならなかった。

「おはよう。

お茶を入れてるけど、飲む?」

公一はそちらに顔を向けた。

「ありがとう。

起こしてくれれば、私がしたのに。」

麗香もベッドからするりと降り立つと、そばに脱ぎ捨ててあった、シモーヌ・ペレールの上品なランジェリーを着け

「お借りします。」

と言って、椅子に引っかけてあった公一のシャツを羽織った。

ドレープ・カーテンを一気に開けると、部屋中が眩い朝日に満たされた。

木々の間を小鳥が行き来している。

 金色の波頭を湛えた湖が朝日に光り輝く。

 それら総ての風景が室内に飛び込んだ。

麗香は、手櫛で前髪をなでつけた。

公一のシャツをラフに羽織った麗香は、まるでスーパーモデルのようだった。

公一は、映画の1シーンのようなその仕草を見ると、未だに夢を見ている感覚がした。

 彼女は備え付けのオーディオからBen.E.Kingの曲を流すと、公一と向かい合わせのソファーに腰掛けた。

二人は湯が沸騰する間、穏やかな表情でお互いの顔を見つめあっていた。

 公一は麗香の吸い込まれるようだった妖しげな瞳を、今はなんの躊躇いもなく見ることが出来るようになっていた。

ティーバッグを、ポットに入れた彼女は、香りが際立ってくると、それぞれのカップに注いだ。

それから、また二人は黙ったまま、時を過ごした。

「昨日、ここへ来た時、いろんなところ、熱心に見てたでしょ?

公一さんは、本当に、建築が好きみたいね?」

麗香が両手でティーカップを持ち口元へ運んだ。

「ああ。

気が向くと、どこでも見に行ったんだ。

独り者だから、気楽なもんさ。

まだ、外国へはほとんど行ってないから、海外の本格的なものは実際には知らないけど、この建物は、とても、粋なデザインだなって思って見てたんだ。

それで、思い出したんたけど、このホテルは、村野藤吾のデザインだったんだよ。

少し前に亡くなっちゃったけど、近代建築家としては個性的で、ユニークな作品が多くて、俺、尊敬してた人なんだ。」

公一は嬉しそうに笑った。

「へぇ。

公一さんは、何でも、勉強家よね。」

「凝り性なだけかもよ。」

「また、そんな風に言う。

根は素直な人なのに・・・」

麗香が優しく微笑んだ。

そして

「いろいろ一人で楽しんだのでしょうけど、これからは、二人で一緒に出来る事が見つかったじゃない?」

と言って、公一の瞳をじっと見つめた。

「えっ?

ああ・・・」

公一はその意味をどう解釈したのか、年甲斐もなく照れた。

その様子に、麗香は、またにっこりすると

「わたしのテスタ、今、 伊豆スカイライン用に、セッティングしてるの。

ファイナルを落としたから、高速道路は、もう公一さんの車には到底追いつかなくなっちゃったわ。」

と寂しげな瞳をした。

 「コブラのタイムを破るための、伊豆スカイラインスペシャルってことだね?」

「うん。

そのために、シーケンシャルシフターにしてるの。」

 「しーけんしゃる?」

 公一は聞き慣れない言葉だったので、聞き返した。

 「これからのまったく新しいテクノロジーよ。

 普通車はH型にギアシフトするでしょ?

 でもシーケンシャルはI型なの。

 つまりオートバイと一緒ってこと。

 シフトの位置は中立で、前後に動かすの。

 私の場合は、前がシフトアップで後ろがシフトダウン。

 今までより速くシフト出来るはずよ。」

 麗香は身振り手振りしながら説明した。

 公一は興味津々の眼差しを向けて話を聞いた。

 「来週、伊豆スカイラインでタイム・アタックをするわ。」

 麗香が公一の瞳をじっと見つめながらそう言った。

 「来週?」

 公一も麗香を真剣に見つめ返した。

「そう。

夜明けと同時に。

あの男がやったと同じように箱根側から走るわ。

それで、お願いがあるんだ。

公一さんと、お友達に、私が走ったことの証人になって欲しいのよ。」

「それは良いけど・・・

麗香さんほどの人間なら分かりきってるとは思うけど、本当に無理だけは止めてくれよ。」

公一は麗香の顔を心配げに見詰めた。

「麗香で良い。

これからは、そう呼んで?」

「分かった。

いつか言ったように、麗香・・・

が考えている事に俺が差し出がましく口を出すつもりしないし、もちろん、助けがいるなら、手伝うつもりだよ。」

公一は複雑な表情でそう言った。

「大丈夫。

私、今、心がとても充実してるし、最高にノッテル状態なのよ。

 暖冬で、雨も少ない、タービンには最適な条件なんて、まるで天までが味方しているようじゃない?」

と爽やかな笑顔をして見せ

「私、今まで、嫌な思いばかりして来たけど、ようやく本当に生きていて良かったって思えるような人に出会えて、とても、嬉しいの。」

と言った。

「大げさだよ。

 俺こそ、麗香みたいな素敵な女性と巡り会えたこと、それこそ、夢見たいだって思ってるよ。」

公一も素直に、そう言った。

「大げさなことなんかないわ。

公一さんが、そう感じたなら、それは、公一さんにとって、夢でも幻じゃない、現実って事よね?」

麗香は猫科の瞳をキラキラと宝石のように輝かせて、心から嬉しそうに笑った。

そして

「公一さんはゴールで私を待っていてね。」

と言った。

「なんで?

俺も邪魔しないように後ろから走るよ。」

「きっと、そう言うと思った。

公一さんは、優しい人だから、私を心配してるんだろうなって。

でも、安心して欲しいんだ。

それに、ゴールに待ってくれる人がいると思えば、心強いし、絶対にやり遂げられそうな感じがするの。

そして、あの男のタイムを破った時は、一緒に喜んでもらいたいのよ。」

麗香はニコッとした。

「分かったよ。

麗香が、そう思ってるんなら、ゴールで待ってるよ。」

不安な気持ちは拭えなかったが、公一は麗香の性格を知っているだけに、やりたいようにさせるしかない事を理解していた。

それから身支度を整えて、レストランで朝食を済ませた二人は、エントランスへ出た。

マネージャーの石橋が丁寧に挨拶してきた。

二人は、そのまま帰路に着いた。

ルート1を使い、西湘バイパスに入ると、海岸沿いを葉山へ向かった。

麗香は、公一の腕にずっと触れていた。

車内が幸福という空気に満たされていたことは言うまでも無い。

公一は麗香と心から信じ合える嬉しさを感じ初めていた。

 だが一つ気になっていることがあった。

 それは何故、彼女は家族に知られるかもしれない場所にわざわざ男の自分を連れてきたのかということだった。

しかし、彼女は十分大人だし、独立しているということのようだったので、別に聞くことはしなかった。

あっという間に、江ノ島を過ぎると、見覚えのある坂を上って、ラ・セーヌで麗香を降ろした。

ルーム・ミラーの中の彼女はこちらが見えなくなるまで、ずっと見送ってくれていた。

マリーナのディンギーが日差しをいっぱいに浴びてハーバーを離れて行く。

穏やかな海原はどこまでも青い。

 とても清々しい朝だった。

第五章(フェラーリ・アタックス) 

5.1(ドライビング・ハイ)

11月下旬。

未明の寒々とした空気が立ちこめる、伊豆スカイライン、天城高原トゥール・ゲート(料金所)に、濃紺のフェラーリ・テスタロッサ、漆黒のポルシェ893と、そして三台のオートバイがいた。

「こちらは岸口達也くん、この伊豆スカイラインを知り尽くしている人で、バイクチームで一緒だった、俺の大切な友人の一人だよ。」

靖国公一はGSX1100Rと共に立つ、長身の男を麗香に紹介した。

「始めまして。」

噂では知っていたものの、実際会ったら、想像をはるかに超えた麗香の美しさに、岸口達也は、緊張しながら握手を求めた。

「始めまして、御門麗香です。」

麗香はしっかりと握手に応じた。

「麗香には、スカイラインのタツと言ったら、伝わりやすいかな?」

公一がそう言った。

「凄い!!

そんな有名人とお会い出来て光栄です。」

彼女は、宝石のように輝く猫科の瞳を向けると、にっこりと笑った。

「よく言うよ。

そりゃ、こっちのセリフだよ。

それに、靖国さんと付き合ってるなんて、二度びっくりさせられちゃいました。」

岸口は爽やかな笑顔で握手を求めた。

「ここを一番詳しい走り屋が来てくれたから、なんだか、とっても、安心だし、心強いわ。」

麗香はしっかりとその手を握り返した。

それから、香川秀彦と高城和雅とも握手を交わす、靖国公一のところに歩み寄った。

友人とはいえ、現在ここで最速と言われるスカイラインのタツまで、わざわざいるのは、公一が、心配して呼んだ事を察している麗香は、それについては何も話さず、笑顔で握手した。

そして

「コブラのタイムより速く走って見せる。

 公一さんは、約束どおり、ここで私を待っていて。」

と囁くように話すと、愛機に向かった。

離れていく後ろ姿を見た公一は、突然、言いようのない不安を感じた。

「麗香、ちょっと、待って。」

つい、そう声をかけた。

「どうしたの?」

麗香が振り返った。

公一は893に戻ると、助手席に置いてあったジェットヘルメットを差し出した。

「やだ。

私は、しないわよ。」

麗香が苦笑いした。

「きっと、そう言うとは思ったんだけど、安心材料があれば、より、気持ちが落ち着くかなって思って。」

そう話す公一に、香川と高城は、いつも自信に満ちた生き様を見せていた男とは思えない雰囲気を感じていた。

それは、心から彼女を心配している気持ちの現れだという事も分かっていた。

何故ならば、麗香がこれから話すであろう言葉も、理解出来ていたからだった。

麗香は優しく微笑むと

「ありがとう、公一さん。

私を心配してくれているのよね。

でもね、私はレーサーじゃない、走り屋なのよ。

ヘルメットなんか必要ないわ。

何があっても、全て、自分で決めた事。

公一さんも、そう言っていたじゃない?

だから、ここで待っていて。

私は過去を振り切って、新しく生まれ変わるために、走って来ます。」

麗香はそう言うと、不安げな瞳を崩さない公一を、きつく抱きしめた。

「それじゃあ、せめて、俺の代わりを連れて行ってくれよ。」

公一はヘルメットをしまうと、代わりに、愛用の黒いスエードのベースボールキャップを出した。

「覚えてるかな?

最初に会った時、俺がしていたやつだよ。

いつも車に乗せてあるんだ。

だから・・・」

「確かに覚えてるわ。

それじゃあ、お借りします。」

麗香は、キャップを受け取ると、自分サイズに調整して被った。

そして

「ヘルメットはしないけど、運転に集中するため、ちゃんと5点式ベルトは装備してあるから、そんな目をして見ないで。

それじゃあ、行ってきます。」

と笑顔で敬礼をしてみせた。

その立ち姿は、スーパーモデルのようだった。

高城が、幼馴染である岸口に近づくと

「靖国さんは麗香さんと一緒に走れないんで、お前を信頼して、スタートを任せたんだ。」

と厳しい表情を向けた。

「そんな事、お前にいちいち言われなくたって、分かってるよ。」

タツは今更といった感じに答えた。

「そうか。

それなら良いけど、麗香さんから、絶対に離されるなよな。」

「ああ、そのつもりだけど、あんな怪物と走った事ないからな。」

「だから、なんだよ・・・」

高城は珍しく弱気なタツの言葉に鋭く反応した。

「俺の限界まで出すさ。

俺はスカイラインのタツ。

この一年以上、ここでは、どんな2輪や4輪にも負けたことはないんだ。」

いつも陽気なタツにしては珍しく、真剣な瞳をした。

「タツは信頼してるけど、無理はしても、無茶だけはするなよ。」

香川が岸口の肩に触れた。

「はい。

靖国さんには心配かけません。」

岸口は香川の目をしっかりと見た。

麗香は、愛機に戻ると、恐ろしく幅の広いサイドシルを手慣れた仕草でまたぎ、バケットシートに腰を下ろした。

ドアの脇に立つ公一ににっこりと笑うと、巨大だが非常識に軽いカーボン製のドアをしめた。

 皮膚のようにしなやかな鞣しの施されたレザー・グラブをはめ、

サベルト・フル・ハーネスの五点式シート・ベルトで体をしっかり固定すると、更に強化されたため、踏みごたえの増したクラッチを踏み、前後にしか動かないシフターでニュートラルを確かめた。

 スロットル・ペダルに右足を軽く乗せてイグニッション・オンすると、スターターボタンを押した。

長いクランキングがあったが、あの乾いた迫力のあるエクゾーストノートが聞こえて来ない。

 気を取り直して、もう一度スターターボタンを押した。

 しかし意に反してエンジンは答えてくれなかった。

公一は、得体の知れない胸騒ぎがしてきた。

 声をかけようかとした瞬間、ようやくエンジンが唸り声をあげた。

 しばらく不規則なバラつきを訴えていたが、やがて、いつもと同じ、管楽器の多重奏のような、官能的なフェラーリミュージックへと変わった。

 公一は、麗香がエンジンをウォーミングアップしている間に

「なんか、変な胸騒ぎがするんだ・・・

俺は一緒に走る事を拒否されたから、頼むよ。」

と、年下のタツに頭を下げた。

「分かってます!」

タツは自分の胸をポンと叩いた。

香川が、そんな公一の肩に触れた。

「タツなら、麗香さんを絶対に見守り抜きます。」

高城も、今までにないくらい心配している公一の気持ちが、痛い程分かっていたので、真剣な表情で、そう言った。

公一も、かつてのバイク仲間というだけでなく、走り屋として、死線を共にしたような絶大な信頼関係があるからこそ、こうして頼めるのだった。

麗香は、相変わらず心配そうな公一の表情を見て、陽気に投げキッスをして見せた。

そして間もなく、スタート位置である、こちらと全く反対側の、箱根側へと向かった。

峠道は不得意なマシンに乗る香川秀彦は5キロほど行った所で待機、高城和雅は20キロくらいの中間点、そしてここでは無敵のスカイラインのタツこと岸口達也が、麗香のスタートを確認する事になっていた。

山間の静けさのせいで、モンスターマシンたちが放つエクゾーストノートがいつまでも木霊のように響き渡っていた。

 公一は、それが完全に聞こえなくなるまで待つと、愛機、ポルシェ893に戻った。

 ヒーターのスウィッチを入れると、腕時計を覗き込んだ。

 セイコー社製ジゥジアーロ・ディザインのスポーツタイプだった。

予定では午前5時ジャストスタートになっている。

 麗香なら無事走りきり、きっと晴れ晴れとした笑顔を見せてくれるに違いない。

 そう心に言い聞かせる公一だったが、先ほど、不意に襲って来た不安感の事が気になっていた。

「取り越し苦労さ。」

それを振り払うように、独り言を話すと、パッセンジャー・シートの足元に置いたヘルメットを、じっと見つめた。

 明かりの全く無い伊豆スカイラインを行くフェラーリの脇を、時折ウィリー合戦を披露して、ふざけてナビゲートするオートバイの三人が、自分をリラックスさせるためだと分かっている麗香は、にこやかに片手を上げて応えた。

「寒いはずなのに、みんなありがとう!」

聞こえないとは思ったが、そう声を出さずにはいられなかった。

「おい、達也!

絶対、麗香さんに離されるなよな!」

 高城和雅が、目一杯バイクを寄せて、そう念を押した。

岸口達也は、当たり前だと言わんばかりに、力強くサムアップして見せた。

最終チェックポイントとなる地点で、香川が止まった。

サムアップすると、全員がそれに応えた。

しばらく行った場所で

「頼んだぞ!!」

と叫んだ高城が止まった。

岸口は、さっと左手を上げて応えた。

スタート地点に到着したのは、午前5時5分前だった。

 箱根峠トゥールゲートの外で180度回転した彼女はスタートの時刻を待った。

 岸口達也は、あらかじめ渡されていた同じタイプのクォーツウォッチの取り付けられた左のセパレート・ハンドルを覗いた。

 勿論それにはストップ・ウォッチ機能も付いている。

麗香の脇にマシンを停めると

「いけそうですか?」

と尋ねた。

麗香は、やる気のある強い瞳でサムアップした。

ついに、スタートのカウントダウンになった。

「10秒前!」

岸口が、大声を出した。

5,4,3と指を折る。

 麗香はカウントダウンに合わせるかのように、スロットルを踏んで、そのフェラーリサウンドを響かせた。

「GO!!」

彼は右手を高々と差し上げた。

麗香は、ついに濃紺のフェラーリ・テスタロッサのクラッチを繋いだ。

非常識な程、幅のあるリア・タイヤが、猛烈なホイール・スピンを起こしたが、優れたチューニングによって、無様に蛇行する事無く、奇麗なスタートだった。

岸口達也もすぐバイクに戻ると、電光石火の勢いで後を追った。

 麗香はシーケンシャルシフターを前方に一回叩き、ロー・ギヤからセカンドにシフト・アップした。

 フル・クロス・レシオに変更してある為、そのエンジンの回転は大きくは落ち込まない。

 さっきの不調が嘘だったかの様に、ベストコンディションと思われる12気筒フェラーリ独特の、絹を引き裂くように甲高く乾いた官能的なエクゾーストノートを放った彼女のマシンは、最初のコーナーへ突入した。

フルチューニングされたマシンは、まだこのスピード域で何も起こる訳は無い。

 理想的なラインをトレースした後、素早くコーナーをクリアーし、ぐんぐんスピードを上げた。

 名手、岸口達也は、麗香の後をぴたりと追った。

 二台はある一定の間隔をおいて、しばらくランデブーしていたが、中速コーナーが多くなってきたため、岸口達也はそうもいかなくなってきた。

 何故ならば、四輪を持つフェラーリの方が、有利な場所だったからだ。

麗香は左の中速コーナーをややオーバー・スピードぎみに突っ込むと、途端にブレークしたリアタイヤをコントロールすべく、素早くカウンターステアリングした。

 極限までチューニングされたサスペンションと、強靱なシャーシはそれをがっちり受け止める。

 少しだけの挙動変化だけで、濃紺のケーニッヒテスタロッサは滑るようにコーナーを駆け抜けた。

 迫り来る次の右コーナーは、まだグリップを完全に取り戻していないにもかかわらず、ステアリングとスロットル操作とクラッチワークで巧みに方向を変えた。

下りのS字コーナーなどは、まるでプロ・スキーヤーの滑降競技を見ているかのようだった。

「畜生、速えぇな!

あれがテスタとは思えねぇ!!」

アライのレース用フルフェイス・ヘルメットの中で、岸口達也がそう叫んだ。

 初めて手合わせした御門麗香の異次元のテクニックに、武者震いが起きる。

 しかし、伊豆スカイラインにおいて、現在無敵の称号のプライドをかけて、なにより、靖国公一から麗香のスタートからを任せられた以上、死に物狂いで、テスタロッサに食らいついていく覚悟を決めていた。

迫りくるコーナーを次々と抜けて行くと、ストレートではピタリと合ったギヤリングによって、少ない直線路とはいえ、その最終到達スピードは、確実に時速250kmは出ているようだった。

この速度になると、路面の荒れを極端に感じる。

麗香は絶え間なく責め立てられる振動と、突き上げ感と戦っていた。

バンピーな路面では、ピッチングによって一瞬で軽くなるステアリングに神経を集中しなければ、あっという間に、あらぬ方向へ飛び出しそうになる。

しかし、ここが公道である以上、この戦いには、それは当たり前だということも理解していた。

フルセットで国産の高級車が買えてしまうほど高価なフェロード・レーシング・ブレーキを巧みに使いこなしながら、麗香は集中を途切らすことなく、怒濤の勢いでおよそ中間点である、第二チェックポイントに迫った。

「来た!!

速い!!」

タツと同じように、ハンドルに取り付けられた時計をちらっと確認した高城和雅の視界に濃紺の低く幅広いボディーが現れた。

大気を切り裂く音が、まるで地鳴りの様に響き、彼女の通り過ぎた後は、ドップラー効果により音波の渦となった。

官能的なフェラーリサウンドが、冷えた空気の山間に木霊した。

 地を這うミサイルの様なスピードで走り抜ける麗香のテスタロッサは、背筋が寒くなる思いがするほどの美しさを感じさせた。

「麗香さん、カッチョ良いぃ!!」

そう叫びながら掛川のロードボンバーも急発進した。

つづら折れを右に左に、半ば強引に切り返す高城和雅。

スタビライザーの付けられたフロントフォークに、今日のために取り付けたステアリングダンパーを持ってしても、そのスピードレンジの高さに、こらえきれなくなったKZ1000Rはブルブルと小刻みにウォブリングを起こしていた。

みるみる麗香のテスタロッサが遠ざかっていく。

「ちくしょう。

やっぱ麗香さんはハエーな!!」

 和雅は超高速で揺れる車体と格闘しながら、そう叫んだ。

大きめの左コーナーを思い切り攻める掛川のロードボンバー。

 強化された足回りとフレームですら、耐えきれなくなった前輪がたまらずアウトへとズルズルと逃げ出した。

 「ここまでかな。」

 己がマシンの限界を感じたそのとき、岸口達也のGSX1100Rが横に並んだ。

 深々とハング・オンをして向きを変えると、高城のマシンを置き去りに、ぐんぐん加速して行った。

「これ以上離されるなよ!!」

高城和雅は聞こえないとは理解していても、叫ばずにはいられなかった。

麗香は、結構良いペースでここまで来たことを実感していた。

だが、連続する緊張から、汗をかき、激しいブレーキと加速性能に、筋肉痛が起きていることも理解していた。

加えて、路面の悪さが、突然ドライバーに牙を剥く事もあるため、疲労が加速的に増して来ていた。

麗香は、気持ちを落ち着けようと、フゥッと長い息を吐いた。

 ただ黙って眼前のゲートを見守っているしかできない公一は、順調なら、麗香は中間点を過ぎたころだろうと考えていた。

 だが、妙な胸騒ぎは相変わらずだった。

幾ら優れたテクニックを持っているとはいえ、彼女は女性だからだ。

連続する重力との戦い、息の抜けぬ緊張感が及ぼす肉体的ストレスは、それがモンスターマシンであるがゆえ、想像を絶するだろうと思っていた。

だからと言って、彼女は、このバトルを途中で諦めることなどあり得ないだろう事も、痛い程、理解していた。

だからこそ、彼女がなんと言おうと、近くで見届けたかったのだ。

やはり、共に走るべきだったのかもしれないと悔やまれる気持ちを抑えることができない。

公一はこの一日が何事もなく過ぎていくことを、神に祈った。

    5.2(デッドストップ・フェラーリ)

スタートしてから、30キロ近く過ぎていた。

麗香は、ここで無理をすると全てが終わってしまう事を理解していた。

有料道路とはいえ、ガードレールの下に民家の屋根が見えるこの場所は、まるで一般路の様だった。

狭い道幅では、パワーだけでなく、最大幅2300mmにも達する、4トントラックとほぼ互角のワイド・ボディーが気になるが、彼女の高いIQによる優れた動態視力で、周囲の状況を把握しながら、常軌を逸したスピードを維持していた。

そして、ここからしばらくは、最大の難所となる、ブラインドコーナーが連続するポイントだった。

セカンド・ギヤまでしか使えず、ステアリング操作だけで切り抜けねばならぬ、アップ・ダウンの連続する狭いS字コーナーで、麗香は早めにステアリングを切り、スロットルを意識的に大きく開ける事で、自らパワードリフトを誘発させるコーナーリングテクニックを駆使した。

こうすることで、出来る限りアベレージスピードを落とすことなく、走る事が出来ると感じたからだった。

有り余るほど膨大なパワーを有しているからこそ行えるテクニックだったが、逆に、直線でも不用意にスロットルを踏むと、あっという間に後輪が空転する事もあった。

ハイパワー、ハイトルクのマシン特有のもので、ちょうど、雪が降り始めた時のような細心の注意が必要だった。

集中を途切らせる事無く、ここまで走って来られたが、やはり、最速タイムを狙う麗香の神経は、疲れてきていた。

だが、アドレナリンの増加によって、それに気がつくことはなかったのだった。

必ずコブラに勝ってやるという強い意志と、ゴールには靖国公一が待っていてくれるという安心感によって、彼女は、ただひたすら前へ前へと突き進んでいた。

ガルフ・ウォリアこと香川秀彦は、待機中、寒さにかじかんで来た手をエンジンの近くに寄せ、暖を取っていた。

 時折、ハンドルに巻きつけていた腕時計に視線を向けた。

少しして、ヘルメットをしているにも関わらず、明らかに分かる12気筒独特の官能的なエクゾーストノートが響いてきた。

「麗香さんの音だ。

早いタイムだ。

この調子なら、本当にコブラに勝てるかもしれないな・・・」

香川はにっこり笑うと、マシンにまたがって、いつでもスタートできるように待機した。

難所を越え、前方の見通しがきくようになったため、麗香は少し安心していた。

なだらかな見通しの良い丘陵地帯が続くため、シーケンシャルのフルクロス・ミッションを有効に使えるようになると思ったからだ。 

左へ上る高速コーナーを、強烈な重力と戦いながら駆け抜けた。

パワーステアリングにしてあるとはいえ、麗香の細くしなやかな腕は、パンパンに張ってきていたため、かなり手ごたえを感じていた。

 今まで酷使し続けて来たタイヤは大丈夫か?

ブレーキは?

と、余計な疑念も気持ちに現れ始めると、突然不安感が頭をよぎった。

その時、前方に香川のVMAXが見えた。

最終チェックポイントだった。

「香川さんだ。

後5キロ、このタイムなら、イケる!!」

ダッシュボードに備え付けていたストップウォッチをちらっと見た麗香は、この戦いの終わりが見えてきたのか、ホッとした。

 そのときだった。

脇の雑木林から、子供を抱えた野生猿が道路を横断して来たのだ。

 あまりの恐怖の為か、親猿は路上で立ちすくむと、子猿をぎゅっと抱き寄せ、かっと見開かれた目を、向けた。

「何だ、あれは!!」

香川がそう叫んだ瞬間、彼女は突然ステアリングを切った。

超高速域で急操作をすれば、ただでは済まない。

まさか、このタイミングでそうするとは思わなかった香川は、麗香のとった行為に、一瞬で背筋が凍り付いた。

麗香は、なんとか障害物を避けると、道路脇に突っ込みそうになったフロントを、再び進行方向へ戻すため、ステアリングに修正を加えた。

だが、そんなことがうまくいく程、現実は甘くはなかった。

フェラーリは、巨大なテールを九十度近くまで振った。

しかし、さすがのドライビングセンスで、かろうじてスピンには至らなかった。

本当なら、ここでスピンしてしまえば良かったのかもしれない。

だが、それはコブラのタイムを打ち破る目的を果たせないという結果に繋がりかねず、のたうちまわるマシンを必死にコントロールし続けた。

「よし!!

うまいぞ!」

 固唾を飲み込んでその光景を見ていた香川秀彦が、そう叫んだ。

 まさにそのとき、彼女に悪魔がほほ笑んだ。

右側のリアタイヤが、突然バーストしたのだ。

「?!!!!!!」

まさかの出来事を目の当たりにした香川は、言葉を失った。

いかにテクニックがあろうと、このスピードで車輪を失っては、もう彼女のコントロール領域ではない事を、一瞬で判断できる状況だったからだ。

猛烈な勢いで横滑りしたフェラーリは、クロモドラ社製のマグネシュームホイールをバラバラに破壊しながら、ボディーの下側を路面に擦り付けると、真っ暗な道路を鮮やかに照らし出す程、おびただしい火花を撒き散らした。

なす術もなく、右手の雑木林に突っ込むと、大きく車体をバウンドさせ、立木に左正面を叩きつけた。

カーボン・ファイバー製の軽量ボディーは一瞬にして砕け散ると、衝撃で、左前輪がサスペンションごと吹っ飛んだ。

それから、今度は右側面を激突させた。

軽合金ハニカム・セミ・モノコックとカーボン合成のフレームが剥き出しになり、真っ白い霧が舞い上がった。

引火しないよう消化剤が自動的に作動したのだ。

その後、様々な液体を、辺りにまき散らした車体は、地面の土や草を激しく削り取るようにして、ようやく停止した。

優雅にして力強く、そして最高の気品を感じさせた濃紺のフェラーリ・テスタロッサ。

 しかし、その秀麗な姿は、そこに無かった。

 一部始終をただ呆然と見ていた香川秀彦は、ハッと我に返ると、すかさずVMAXを事故現場に向かわせた。

弾けるようにバイクを降りると、一目散に麗香のもとへ走った。

近づくにつれ、生ガスと消火剤の混合した鼻を突くような何とも言えない刺激臭が、辺り一面に立ち込めていた。

 バラバラに散らばった、かつてのボディーの一部が事故の大きさを物語っているが、唯一不幸中幸いだったのは、立木に正面衝突しなかった事だったかもしれない。

間も無くスカイラインのタツが到着した。

すぐ異変に気がついた彼は、ヘルメットのシールドを慌てて上げ

「どうしたんですか?!!」

と叫んだ。

「麗香さんが事故った!!

大至急、救急車を呼びにいってくれ!!」

香川は声の限りそう叫んだ。

「分かりました。

畜生!!」

タツは、発射された弾丸の様にスタートを切った。

麗香のところまできた香川秀彦は顔をしかめた。

そこには、剥き出しにされた骨格と無残に裂けたボディーだけがあるだけで、前輪は両方とも根元から、完全に消え失せていたからだった。

恐る恐る前方へまわると、フロントガラスは枠ごと、どこかに吹っ飛んでいた。

香川は、コックピットで蹲る麗香を発見した。

心臓を、悪魔にぎゅっと握られたような感覚を覚えながら、中を確認すると、彼女は、公一が渡したスエードの黒いベースボールキャップが頭からずり落ち、顔を隠していた。

香川は、ステアリングを握り締めたまま、身動きしない麗香の脇にしゃがみ込んだ。

「しっかりしろ!!

俺が分かるか、麗香さん?!!」

必死に声をかけたが、やはり彼女は全く動かなかった。

香川は最悪の事を考えざるを得なかった。

だが、安否を確認しなくてはと気持ちを落ち着けて、恐る恐るベースボールキャップに手をかけた。

「頼む・・・

頼みます・・・」

心でそう念じながら、キャップをどけると、乱れた長い髪に覆われ、その表情を見る事が出来なかった。

しかし、彼女の白く美しい肌を染める鮮血を確認すると

「ああ、駄目だ!!

お願いします!!」

香川は何かに必死に懇願した。

 そのとき、背後にデビルのエクゾーストノートを聞いた。

「どうしたんですか?!!」

やはり異変に気づいて、急停止した高城和雅は、ありったけの声を出した。

「麗香さんが、大変だ!!

タツに救急車を呼びに行かせたから、お前は、すぐ靖国のところに行ってくれ!!」

香川秀彦は、涙声になりながら、出せるだけの声をあげた。

「ハイッ!!」

高城和雅は血相を変えて、マシンを急発進させた。

「うっ・・・」

小さくだが、彼女の声を聞いた香川秀彦は、はっとした。

 とりあえず、生きていてくれたことの安堵感が、こみ上げてくる。

「どうした?

俺がわかるか?」

 慎重に彼女の声に耳を傾けた。

「パパ、どうしたの・・・・?

 どこへ行くの・・・・?

 私は行きたくない・・・」

 麗香は瞳を閉じたまま、鮮血に染まった口元で、そうつぶやいた。

 涙が筋となって、そのほほを流れていた。

公一は少しいらだっていた。

 予定と些か違っていたからだ。

コブラの持つタイムを過ぎてしまっていたストップウォッチを止めると、不安そうに、サイド・ウィンドーを開けた。

少し経つと公一の耳に、遠くから響くエクゾーストノートが伝わって来た。

だが、それは麗香のフェラーリの音とは違っていた。

「あれは、デビルの音だ・・・」

公一は急に胸の鼓動が早くなってきた。

みるみるその音が近付いて来た。

 トゥールゲートの先に見える右コーナーから全速力で抜け出たマシンは、特徴的なイエローのヘッドライトのバイクだった。

 心臓の鼓動が急激に高まった。

 公一は、呼吸すら乱れ始めてきたのを感じていた。

高城和雅はフロントタイヤから悲鳴を上げる程の急制動をすると

「麗香さんが大変です!!

早く来て下さい!!」

と、叫んで、その場で素早くアクセル・ターンし、来た方向にバイクを向け、公一を振り返った。

公一は吐き気がして来た。

 めまいすら感じる。

 しかし、何とか気を取り直すとポルシェ・フルシンクロス・ミッションをロー・ギヤにたたき込み、硬直しつつあるその体に鞭打って、あたかもカタパルト発射された艦上ジェット戦闘機の様な勢いで、893をスクランブル・スタートさせた。

「彼女に限って・・・

絶対に大丈夫だ。」

 公一は不安を掻き消すように、自分にそう言い聞かせると、レッド・ゾーンぎりぎりで舞い続けるタコ・メーターの針を無心で眺め、不安な気持ちを少しでも良い方向に解釈しようとしていたが、そんな心とは裏腹に、ステアリングを握り締めるその指先が痺れたように震えていた。

「早く着け。

一体、麗香に何が起きたんだ?」 

 そう思う心とは裏腹に、まるでそのまま時間が停止してしまっているようにも感じる。

 どんなに飛ばしても彼女の居る所へはたどり着けないような奇妙な錯覚さえも覚えてきた。

 そんな公一の眼前に、スカイラインのタツの愛機が見えた。

路面に刻まれた、金属で引っ掻いたと思われる激しい削りキズが、雑木林へとつながっていた。

息苦しさを感じながら公一はポルシェを素早く脇に寄せると、ガルウイングドアを跳ね上げ、弾き飛ばされたように飛び出した。

そして奥まった立木の間で、VMAXのヘッドライトを見つけると、そこに向かって一直線に走り出した。

近づくにつれ、それがなんなのか分かると、気が狂いそうになって来た。

「いったい・・・」

 現場に着いた公一は声にならぬ声を出した。

「救急車は手配した。

彼女は死んではいない。

ただ、頭を打っていたら心配だから、素人の俺たちでは手が出せない。

分かるな?

救急隊が来るまで、待つしかないんだ。」

香川秀彦は、呆然とした様子の公一の肩に手を掛けると、揺さぶりながら大声で言った。

「このままほっとけるか!!」

 公一は、そばに近寄ろうとした。

 香川の力だけではどうすることも出来ない物凄い力だった。

 「こいつを抑えろ!!」

 香川の言葉に、その場に戻っていた岸口も公一に抱きついた。

 「落ち着いて下さい、靖国さん!!」

 「落ち着け、ヤス!!」

 二人は口々にそう叫んだ。

 「どいてくれ!!」

公一は叫んだが、二人は力を緩めることはなかった。

一目散に近寄った高城も体を押さえつけると、さすがに体格のいい公一も身動きが取れなかった。

 それでも、なかなか抵抗をやめない公一に

「馬鹿野郎!!

今、麗香さんを動かして、このまま死んだら、お前、どうすんだよ!!」

 と、香川が叫んだ。

死という具体的な言葉を聞いた公一は、ようやく少し平静さを取り戻して来た。

 間もなく、けたたましいサイレンを響かせた救急車が止まった。

続いて警察も到着すると、回転灯によって、周囲がたびたび赤く照らされた。

 救急隊員と共に、警官が二人近づいて来た。

 一人は若く、にきび顔で、もう一人は白髪が多い。

「おい、こりゃひでぇな。

フェラーリじゃないの?」

若い方が、辛うじて無事だったリアエンドに刻まれた、シルバーに輝く跳ね馬のマークを見つけた。

 「生きてんの?」

 救急隊に質問する。

ロールケージによって守られたコックピットから、何とか救出された彼女はすぐストレッチャーに乗せられて運ばれた。

鮮血に染まった麗香の顔を見た公一は、背筋が凍りつくような気がした。

 もう一人の警官がこちらに来ると

 「友達か?」

 と質問した。

 「そうです。」

 香川が答えた。

 「あの女性の身分証明になるものは有るか?」

 「はい。」

 香川は、先程、麗香の赤いレーシング・ジャケットのポケットから抜いておいたケースをその警官に手渡した。

 中身は免許証、名刺、そして一枚のカードが入っていた。

 そのカードを確認した警官は顔色を変えて救急車へと走った。

 若い警官の方は壊れたテスタロッサをいじりまくっていたが

「かわい子ちゃんの乗れるような車じゃないのによ。

全く、困ったもんだ。

どうせ親のすねをかじってる、どっかの遊び人だろ。」

 と言い捨てた。

 靖国公一はその警官の胸倉をつかむと、片腕で軽々と空中に持ち上げた。  

 そして

 「もう一度言って見ろ。」

 と、低く凄みのある声で言い放った。

 若い警官は足をばたつかせて喘いだ。

 「止せ。」

 他の三人が制止する。

 公一は若い警官をそのまま放り投げた。

およそ2メートルも飛ばされた若い警官は昏倒すると、今にも窒息しそうになった真っ赤な顔で咳き込んだ。

それから

 「おまえらみたいな連中がいるから一般の人が安心して走れねぇんだ!!」

 と、やっと声を出した。

 公一は眉間に縦皺を寄せると、凛とした瞳を向け、再び、その警官に歩み寄った。

 三人はその背後から公一を押さえ付けた。

 「何だ、お前!!」

 そいつも立ち上がった。

 「おい、何をしてるんだ!」

 そのとき、もう一人の白髪の多い警官が戻って来た。

 救急車はけたたましくサイレンを鳴らして、スタートした。

 公一は遠ざかる車両を見送った。

「彼女は修善寺の赤十字病院だ。

早く行ってあげなさい。」

中年の警官は、そっと公一の肩に触れると、更にオートバイの三人にも

「御苦労様。」

と礼を言った。

 そして、カッときている若い警官の肩を力強く押すと、パト・カーに戻った。

 「とにかく、病院へ行こう。」

 香川秀彦の言葉にみんな無言で頷くと、それぞれの愛機に戻った。

 少しして、爆音を轟かせたマシン群はあっと言う間にその場を後にした。

 「何故、行かせたんですか?!!」

 納得のいかない若い警官が中年の警官にからんだ。

 「彼女は、VIPホスピタルカードを持っていたんだ。」

 中年の警官が答えた。

「はっ?

何すか、それ?」

 若い警官が吐き捨てるように言った。

 「日本の重要人物にだけ渡されているカードで、例えば、病院では、どんな重病人よりも優先されるというものだ。

数日前、署の方に通達があったんだ。

伊豆スカイラインで、このカードを持った人間に何かがあった場合、即時対応しろとね。

 長年勤めてるが、私も、そのとき初めて、カードのことを知ったよ。

今日、この道が空いているのは偶然じゃないんだ。

そういうふうにしてあった。

 ここの近所で迂回措置しているせいだ。

 それもある人物からの要請だった。

 彼女の氏名は御門麗香。

 敗戦の日本を救ったと言われている御門一族の現当主、元来(げんらい)の一人娘だ。」

「何だ。

やっぱり、すねっかじりのアバズレお嬢様じゃねぇか!」

若い警官は馬鹿にしたように言い捨てた。

「彼女は、警視総監や総理大臣までが、わざわざ挨拶に行くほどの人物の一人娘なんだそうだ。

今回のことだって、実は、政府機関直々のお達しらしく、署長がピリピリしてたほどだ。

今言ったことが、関係者に耳に入ってみろ!!

おまえなんぞ闇から闇に簡単に片付けられちまうぞ。」

年長者の警官は、帽子を脱いで、ひたいの汗をぬぐった。

5.3(救急処置室)

御門麗香を乗せた救急車が病院に到着すると、連絡を受けて既に待機していたメディカル・スタッフが大勢で出迎えた。

そして、迅速な対応で、ER(救急救命室)へ運ばれた。

それほど時間差なく靖国公一と仲間たちも病院に到着した。

赤灯が回ったままの救急車が停められた救急搬送用ドアから、院内に入ると、使用中のランプが灯った廊下で、彼女の無事をひたすら祈った。

「彼女、うわごとを言ってたよ。

パパ、どこへ行くの?

私は行きたくないって・・・・

一体何のことだったんだろう?」

香川秀彦が靖国公一にそう話しかけたが、彼は何も考えられず、茫然自失のようになっていた。

それから、皆、無言だった。

 どのくらい経ったのだろう、随分と長い時間が過ぎたように感じられた。

 突然、ERのドアが開いた。

 公一は、白衣を着た医師と見られるその男に

 「自分は救急車で運ばれて来た御門麗香さんの友人で、靖国公一と申します。

彼女は、大丈夫なんでしょうか?」

と声をかけた。

 近視用のメタル・フレームの眼鏡をかけたその男は

「医師の田中です。

患者さんは、かなりひどいショック症状のようなので、今のところ全く予測がつかない状態で、それに対応する処置を続けています。」

 と答えた。

「怪我の状態は、どうなんでしょうか?」

公一はすがるように、そう尋ねた。

「今、申しましたように現在非常に不安定な状態で、充分な検査が出来ていないんです。

強心剤によって、とりあえず血圧を確保出来ている状態で・・・」

 そう言った医師は

 「公一さんって、おっしゃいましたね?」

 と尋ねた。

「はい。

靖国公一と申します。」

公一は再びそう名乗った。

「殆ど意識は無いと思うのですが、患者さんは、しきりにあなたの名前を呼ぶんですよ。

ちょっと来て下さい。」

 田中医師はERに公一を入れた。

 各種のメディカル・マシンが並ぶその中央の大型治療台に彼女は寝かされていた。

身体中に様々な管を繋げられたその姿を見ただけで、公一は、酷くショックを受けた。

酸素吸入を受けてはいたが、たまに苦痛に顔を歪めると呻き声を上げる彼女は、涙と冷や汗で、ほほがぐしゃぐしゃに濡れていた。

 公一は台の脇へ寄り添うと、麗香の手を握った。

「俺だよ、分かるかい?

公一だ。

ここは病院だから、もう安心して良いよ。

俺が、いつでもそばに居てあげるよ。

ずっと麗香を見守ってあげる。

 だから、一人じゃないよ。」

 と静かに語った。

 その瞬間、彼女の閉じた瞳から涙が溢れた。

 しかしその表情は次第に苦痛がとれてきて穏やかなものになっていった。

 「先生、脈が安定してきました!」

 「血圧、安定しました!」

 看護婦達が少し興奮気味に報告した。

 医師団は安堵の表情を浮かべると、それぞれに顔を見合わせた。

意識レベルは低いが、麗香は医学的に最悪の状態を脱しそうだと判断された。

「ありがとう、何とか安定して来たようだ。

後は私達に任せて。」

先程の医師が、安心した様子で、公一を見た。

公一は深々と頭を下げると

 「よろしくお願いします。」

 と答え、そっと部屋を出た。

 心配そうに見詰めて来る仲間に

「とりあえず、安定してきたって。」

と返事した公一が、少しだけ笑ってみせると、三人はようやく息が抜たように、ぐったりとベンチに腰を落とした。

「俺がやる。

雪が降る前に・・・・

俺がコブラと勝負して、奴の持っている記録をブチ敗ってやる。」

公一はERを睨みながら圧し殺した低い迫力のある声でつぶやいた。

5.4(宣戦布告)

事故から二日ほどして、幸い意識を取り戻した麗香は、まずは、絶対安静を言い渡された。

完璧なコックピット設計のおかげもあって、あれだけ大きな事故だったにも拘わらず、怪我は奇跡的に軽かったようだったが、それでも、診断によれば、頭部裂傷、腰椎圧迫骨折、頚部打撲、両足首捻挫、血尿で全治三ケ月というものだった。

公一は面会が許されなくても、足繁く病院に通い、彼女の容態を確認した。

驚いた事に、数日の間に、彼女の病室を出入りする医師が多くいる事だった。

最初に担当した医師ではなく、もっと威厳のあるベテランたちのようだった。

ラ・セーヌのデュレクトールをしている人物とも、よく顔を合わせた。

とても心配している事が理解出来たが、公一と挨拶を交わすと、黙って、廊下のベンチに腰掛けたままだった。

それから、時間を作っては、必ず伊豆スカイラインを走っていた。

たまに岸口達也と会うことがあったが、彼はいつもの様子で、明るく偶然を装っていたが、皆の前でコブラと戦う事を宣言した公一を心配しての行動に感じられた。

 早くしないと雪が降る。

 低気圧でも来たらもう駄目だ。

 公一の気持ちとは裏腹に、瞬く間に数日が過ぎて行った。

 だが、麗香とは、ようやく面会が許されたので、公一は一安心していた。

 彼女はひどく落ち込んでいた。

 公一は、麗香が一刻も早く治るにはどうしたら良いかを真剣に考えた。

以前、バイクの事故を経験した時、怪我を早く治すためには、いかに本人がコンセントレーションを高めるかが大事だということを自ら学んでいた。

 一種のバイオ・フィード・バックといっても良いだろう。

 治そうという強い気持ちが、自己治癒能力を高めると信じている公一は、出来る限り麗香を元気づけに通った。

小康状態の続いていた彼女だったが、頻繁に訪れる公一と会話をしているうち、少しずつ回復を見せてきた。

 「だいぶ、よくなったようだね。」

 公一は優しく麗香の顔を見た。

 「ベッドに縛り付けられているだけなんて、もうたくさんだわ。」

 彼女は忌々しげに天井を睨んだ。

「あんな大きな事故だったのに、そのくらいで済んだんだって思わなきゃ。

鼻についていた酸素のチューブは、もう、とれたじゃないか。

切れた口の中も治って、普通にご飯食べられるみたいだし、それに、ドクターの話だと、頭の切り傷も、そんなに深くなかったから、跡形もなくなるってさ。」

 公一はベッド・サイドの椅子に腰掛けて笑顔を浮かべた。

 「それは分かってるけど、このままだと気が狂いそうだわ。」

「あれ?

麗香はそんなに気の弱い人だったのかい?

焦る必要はないって、ドクターだって、そう言ったろ?」

 公一は麗香の左手を握ろうとしたが、彼女はそれを拒否すると

「コブラとの勝負はもう良いの。

それより、こんな姿を見られるのはもう嫌なの・・・」

 「えっ?」

 「初めは凄く心細くて、つい甘えてしまったの。

本当に御免なさい。

だけど、公一さんには、もうここへは来て欲しくない。」

麗香は突然態度を硬化させた。

「なんだよ。

急にどうしたの?」

「どうもしないわ。

もう来て欲しくないだけよ。

それとも、こんな体になった私を笑いたい?」

困惑する公一に、麗香は強い瞳を向けた。

「そんな事、思うはずがないじゃないか?」

「コブラの事なんか、もう考えたくもない。

それに関係する話も、何もかも耳にしたくないの。

走り屋なんて、くだらない真似は、金輪際するつもりはないのよ。

帰って!!」

麗香はそう言うと、顔を背けるようにした。

「わかったよ。

とにかく、今は、ドクターの言う事をちゃんと守って、体、大事にしてよ。」

公一が仕方なく立ち上がると

「もう、二度と私に構わないで・・・」

麗香はこちらを向く事なくもそう言った。

なぜ急に怒り出したのか納得いかなかった公一だったが、若い女性が、立つこともできず、様々な管が入れられた体を見せたくないのは本音なのかもしれないと考え直した。

 それから数時間後、彼は麗香と初めて会った御殿場のバーを訪れた。

 コブラの知り合いだというマスターの経営している店だった。

バランタイン・12イヤーズオールドのスコッチ・ウィスキーをオン・ザ・ロックスにしたものをオーダーする。

「コブラに伝えてください。

ポルシェ893が、湘南のローザのことについて用があるって。

 3日後、十国峠で、午前4時30分に待ってるから、自慢の愛車で来て欲しいって。」

それだけ言うとグラスの中身を一気に喉にほうり込み、代金をカウンターに置いた。

 「コブラが来るも来ないも、マスターがコブラにこの事を話すも話さないも、総て自由だけど、俺は信じて待ってますよ。」

 公一はそう言うと、外に出た。

 膚に当たる風はひどく冷たい。

 公一は思わず目を細め、ポルシェ893のガルウィングドアを跳ね上げた。